BANSHODO_Logo
gray line

Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

gray line
第100回

Kind of Jazz Night 連載100回記念
片岡 学 インタビュー

第3部



第1部 少年時代
●ジャズとの出会い
●佐世保、岩国、神戸、京都の修業時代

第2部 ジャズでメシを食う
●東京時代、いよいよプロへ
●コンボからオーケストラへ
●シャンパンミュージックとの出会い

第3部 東京から神戸へ
●ニューハード、東京ユニオン、スターダスターズ時代
●神戸への帰還
●神戸北野クラブを皮切りに、再びトランペットを

第4部 70歳を越えて
●70歳にして初めてラッパを習う
●ジャズは人との出会いそのものだった



インタビュー
2013年7月27日
神戸市再度山 鯰学舎にて

取材:大橋郁、松井三思呂、吉田輝之、平田憲彦
協力:片岡美奈子氏
企画:松井三思呂
編集:平田憲彦
発行:万象堂



万象堂Kind of Jazz Night連載100回記念、トランペッター、片岡学さんの2万字スペシャルインタビュー。4回に分けて掲載いたします。



第3部 東京から神戸へ

●ニューハード、東京ユニオン、スターダスターズ時代

帝国ホテルやホテルオークラでもよく演奏してました。パレスホテルでは宮間利之とニューハードというオーケストラで2年くらいやってました。ニューハードはトランペットが3本だった。僕は平岡精二さんのクインテットとニューハードで録音したんです。海外に売り出すための。草月会館でね。今から考えると不思議でね、なんでオーケストラとクインテットの録音が同じだったのか、とね。

その録音が終わった後に声がかかって、ニューハードのトランペットを4本にしたい、と。アドリブラッパで来てほしい、と。
リードラッパはリードだけを専門に吹くラッパ。セカンドラッパにアドリブを吹かせるのか、4番ラッパにアドリブを吹かせるのかはアレンジ次第。3番ラッパは、まずハイトーンを吹けなきゃいけない。4番はアドリブのソロが多い。セカンドラッパは、そこそこ音が出ることが大切。そんな風に、役割がハッキリと分かれてました。

アレンジャーがうまくスコアを書いてくるのでセカンドラッパに吹かせたあとはすぐに4番と掛け合いをさせたり、後半に4番トランペットを持ってきたり、いろんなアレンジを駆使するんですね。ニューハードのアレンジャーは、山木幸三郎さんでした。

一つのバンドにひとりのアレンジャーという組み合わせは、良い場合もあれば、ぜんぜんだめな場合もあってね。つまり、年間で何十曲と書くんだから出来不出来は当然ありますよね。これは素晴らしいなあ、という曲もあれば、なんじゃこりゃ、という曲も出てくる。

アドリブラッパのパートは、コードはかかれているけどメロディは完全にアドリブ。即興ですね。ラッパそれぞれで役割分担してて、アドリブができない人はアドリブパートは吹かない。はっきり分かれてるんです。

当時のニューハードは、トランペットが4本、トロンボーンも4本でした。サックスが5本。僕はコンボで長い間やってましたから、オーケストラに入ってもアドリブパートを吹くことが多かったですね。コンボ時代の影響もあって、いろんなスタイルを演奏できたので、重宝されました。

ニューハードから有馬徹さんのノーチェ・クバーナに移ったのは、まずは結婚することになったからです。こんな事を言うのは恥ずかしいんですが、結婚費用がちょっと足らなかったのでバンス(前借り)してもらおうと。もうひとつの理由は、ニューハードはすごく忙しくて、昼間の録音、夜の録音とバタバタで、当時で言うジャリタレ、中尾ミエさんとか弘田美枝子さんとかナベプロの誰それとか、みんな制服みたいな服を着てカバンを持ってきて、それで歌を歌うんですが、その伴奏ばかりになってきててね。それがもうイヤなってね。毎日そんなのでした。毎日。仕事はたくさんあったんですけどね。
忙しい頃は、一ヶ月に65本くらいの仕事がありました。クレイジーキャッツのバックとかね。スーダラ節のトランペットは僕が吹いてるんですよ。

植木等さんとも親しくさせていただいてたんですが、僕が銀座のクラブに出演したときは植木さんがギターを弾いてくれてね。それはまだクレージーキャッツが始まる前ですけど。彼の家は目黒だったんです。僕は渋谷だったので、仕事が終わったら僕を待っててくれて、一緒に帰ろう、と。植木さんはすごくギターが上手かったですね。そのうちに、ジャズではなくてクレージーキャッツを結成して、そっちで活動するようになっちゃいましたね。

僕はクレイジーキャッツの安田伸ともすごく仲が良くて。安田くんの奥さんが竹腰美代子さんといって体操の先生で、体操のイベントがけっこうあったんです。僕のバンドを使いたいから、って言われて何度かイベントに出演させてもらいました。僕が持ってる譜面を使う事が多かったけど、でもビートルズの曲をやったりね。当時はビートルズが流行ってたから。バンド演奏があったり、体操の時間があったり、そういうイベントでした。当時は斬新でしたね。

僕がニューハードにいたのは、昭和36年、37年です。それからノーチェ・クバーナで38年、39年です。そのあとはオーケストラが嫌になってしまって、コンボがやりたいって思って、ダークダックスの事務所に入って、彼らの専属バンドに加わった。ところが、始めてみると全然仕事が無くて。仕事一本についていくら、という契約ですから、仕事がなかったら食べていけない。1ヶ月に二回とか三回とかじゃあねえ。で、すぐ辞めちゃったんですよ。

それで、高橋達也さんの東京ユニオン(当時のリーダーは野村良さん)から打診が来まして。それで移籍したんです。ところが、その頃の東京ユニオンは、良いバンドだったんですけど今にもつぶれそうな状態。ちょうど昭和41年くらいですか。東京ユニオンではいろんな外タレのバックバンドをさせてもらいました。プラターズや、コニー・フランシスとか、とても多かったです。普通は、ピアノ、ベース、ドラムというリズム隊は一緒に来日するんです。もちろんスコアも持参して。そうするとリハーサルもあまり要らないしね。ピアニストがコンダクターの役割も担うわけです。

プラターズのシンガー、トニー・ウィリアムスのことは思い出深いです。何枚もミリオンセラーを出したくらいのシンガーなんだけど、その頃の彼はアル中で、ぜんぜん歌えない。ところが契約書には、日本では一切お酒は飲みません、と書いてある。なので飲まさなかったんですが、まったくステージで歌えない。
あの有名な『オンリーユー』ですが、僕たちがバックでダダダダダー、って始めるでしょ、で彼が『オーン、リー、ユ〜』って歌い始めるはずなんだけど、その『オーン、リー』が出てこない。マイクのところまで行って、で『オーン、リー』が出ないから僕たちのバックの方までやってくる。バックコーラスは『ワワワワ〜』って始める。ところがトニーは歌えない。

他のメンバー誰かが歌えばいいのに、って思ったけどね。結局司会者が出てきて『申し訳ありません』と客に謝る。しょうがないからステージの幕前で薄い水割りを作って飲ませたんだけど、それでも歌えない。東京、京都、大阪、広島、で東京へ戻ってくるツアーでした。

もういよいよ最後、という時。二度とプラターズは日本では使わないということになって、もういいから飲ませようということになり、飲ませたんですが、そしたらいきなり素晴らしい歌声で歌い始めた(笑)。
アル中って本当に怖いもんだと思いました。あれはもう病気ですよね。

東京ユニオンの後、渡辺弘とスターダスターズに移籍しました。僕はまだ30歳前後だったので、一度は彼らのバンドに入ってみたいという希望がありました。当時は有名で、ダンスバンドとしても素晴らしいバンドでしたので。歴代トランペッターも素晴らしかったし。マネージャーから電話があって、来ないかと誘われたのもいいタイミングでした。

バンドのマネージャーがメンバーの手配もやってましたから、誰かいいミュージシャンはいないかと常に情報のやりとりが活発でした。だから、日野くん(日野皓正氏)の弟、トコチャン(日野元彦氏)、彼も東京ユニオンで一緒だったんです。スターダスターズでも一緒だった。彼はオーケストラのドラムもできる腕がありました。コンボのイメージが強いけど、彼はオーケストラもいけたんです。だけど、よく怒られてましたね。怒られやすいタイプっているでしょ、そういう感じ(笑)

どのバンドでもマネージャーがいて、テレビであれ、ラジオであれ、録音であれ、契約するのはマネージャーでバンドリーダーが出て行くのは一番最後でした。最後というのは、マネージャーがうまく話を進められない時に、いよいよ出て行く最後、ということです。マネージャーの善し悪しで仕事が多いか少ないか決まってしまう。会社でいうところの営業マンです。マネージャーは事務所が雇うことになるんですが、バンドによってはマネージャーが2人という場合もあります。

でも、マネージャーがどうであれ、僕たちは何でも演奏できなきゃいけなかった。一つのことしかできないのでは、食べていけなかった。ひとつのバンドに、ひとつのスタイルで、20年も30年もやってる人は確かにいます。でも僕は2年くらいすると飽きてくるんですよね。オーケストラの場合は最低でも5年はいるという人が多いですけど。

昭和43年から、銀座のクラブ『グランドパレス』で『エスクァイア』という11人編成のセミオーケストラを作ったんです。最初は3年契約で、あとは2年毎に更新してね。その頃は、ミュージシャンの組合とかいろんなことがありまして、一方では共産党系、社会党系、はちまき巻いて「カネよこせ」とかね。時代は安保の時代でした。そりゃ、共産党系はすごかったですよ。ちゃんとお金をもらって仕事しているのに、カネをよこせと。お客さんが入ってくる場所でワアワア言ってた。そんなことになったら、そりゃみんなおかしくなりますよね。

彼らの最初のうたい文句はね、これからミュージシャンは良くなる、とか、良くしていかなきゃいけない、とかの声がいっぱい出るんだけど、逆にそれでみんなダメになっていきました。まず店が毛嫌いしますよね、そんなミュージシャンは。でもね、そういう時代だった。それが3〜4年続いたと思います。


●神戸への帰還

僕が銀座のクラブでの演奏を辞めようと思ったのは、そういうこともありましたし、50歳を過ぎたら神戸に戻って茶店でもしようか、なんて冗談を言ってたのが、本気になってきて神戸の六甲山に土地を買ったんです。それが昭和46年くらいです。ところがすぐに神戸から連絡が入って、昭和47年から六甲山は国立公園になるので買った土地に家が建てられなくなるかもしれない、と。
その土地が、今僕が店をやってるここなんです。買った当時のことを思い出しても、どうしてここを気に入ったのか、よくわからない(笑)

ともかく、20年も東京でやってきたし、ややこしくなってきた組合のこともイヤになって、さらに47年から家を建てられなくなるかもしれないということも重なって、タイミングがピッタリと合ったんですよ。もう神戸に帰ろうと思って、買った土地に家を建てたんです。大工さんを紹介してもらって。

こんな六甲山の山の中に家を建てたものだから、雨が降ったらどろどろになるし、まだまだ作りかけみたいなものなので、植木市に顔を出しては草木を買い集めていって庭に植えてと、トラックで運搬するわけです。店の人には公園でも作る気かと思われてたみたいですね。
僕は庭については素人だから、植え方がわかってないわけです。プロから見たら、なにをやってるんだ、この人は、と。でもね、植えた草木は徐々に大きくなっていくわけです。そういう状況を見かねた知り合いの庭師さんが、俺が作ってやるよって言ってくれましてね。2ヶ月間泊まり込みでこの庭を造ってくれたんです。それが、今のこの庭の原点です。ものすごくお金はかかりましたねえ。

ともかく、神戸に戻ってきたときはそんな家づくりばかりやってました。大変でしたけど、東京のど真ん中で20年間、穴蔵みたいなところで生活してきて、仕事はナイトクラブの薄暗い部屋ばかりで、そんなところをかけずり回ってました。スタジオも暗いですよね。街は騒音も多いし、明るい場所と言ったらスポットライトのステージくらいなものです。だから、街中や都会じゃなく、この山の中が良かったんだと思います。

神戸に帰っても仕事はなかったですけど、仕事をしようという気持ちにもなってなかった。神戸では僕は誰もミュージシャンを知らないし。知ってると言えば小曽根実くらいなもので。
神戸に帰る少し前にドラムのジミー原田さんに声をかけられました。「片岡さん、神戸に帰るんだったら北野クラブをやってくれませんか」と。紹介してくださるようで、僕もその時はよろしくお願いしますと挨拶しておきました。北野クラブの初代バンドリーダーが、上海バンスキングのモデルにもなったオールドボーイズのジミー原田さんです。彼の弟が僕の友人でもありました。

東京時代の最後の5年間は、毎日馬車馬のごとくトランペットを吹いてました。日曜祝日は休みなんですが、営業日は毎日出てました。そのほかにもスタジオに入ったりとか、もう毎日働いてました。だから、神戸に帰ってきてもなにもする気が起きなかったです。

スウィートミュージックを始める前は、いろんな音楽をやってました。ビートルズからバカラックから、スウィングもなんでも。腕のいいアレンジャーに頼んでスコアを書いてもらってました。良かったんですが、結局リズムが合わなくなっていったんです。つまり、時代の変化が早くて、一年一年と経つごとにリズムが合わない。ビートルズが演奏していたリズムに対して、僕たちが演奏していたリズムは一気に古くなっていきました。僕たちの演奏が流行っていた時は、銀座のクラブでもみんな喜んでくれたんだけど、いつの間にか、演奏している方も聴いている方も、なんか古いなあ、と感じていくようになったんです。その古さというのは、リズムですね。
v でも、2ビートは変わらないと。このリズムはずっと変わらないと思いました。ただ、20人編成の譜面を5人編成の譜面に書き直すにはどうしたらいいか、と。アレンジを縮小するには。それでひらめいたのがメドレーでした。

片岡学&エスクァイア・クインテットという名義で録音したこの『Sweet and Mellow』というアルバムですが、36曲入ってます。メドレーアレンジで録音してるんです。シャンパンミュージックのメドレーのキレイさ、誰でも知ってるわかりやすさ、踊りたいなという気持ちにさせてくれるリズム、これはちょうど北野クラブに合うんじゃないかと思いましたね。


オリジナルアルバム『Sweet and Mellow』
片岡さんのスウィートミュージックの結晶ともいえる、美しくスウィングしている作品集
Sewwt and Mellow
Manabu Kataoka Esquire Quintet


昭和31年にジミーさんが入られたときも、だいたいこういうシャンパンミュージックなんです。当時の北野クラブも。そこで僕は東京のアレンジャーに頼んで、資料を渡して書いてもらった。東京時代の曲は300曲くらいあるので、船上演奏の仕事でもあれば、3日間連続でやっても同じ曲に当たらない、なんてことが出来ますよね。でも、関西ではなかなかシャンパンミュージックを演奏する仕事はないですね。

僕がやってるシャンパンミュージックには、アドリブはまず無くて、譜面通りに演奏するんです。アドリブパートを入れると全体の調和を乱すんです。でもね、このアルバムにはアドリブを一曲だけ入れてる。ピアノの『ノラ』という曲です。でもね、テナーソロなんだけどね(笑) 高木敏郎さん、僕と30年一緒にやってますね。アレンジは本木英夫さん。解説を書いてくれたのは畑本健、大橋巨泉の弟子なんです。録音は富士通テンさんのスタジオをお借りして。

その時にね、こんな話をしたんです。富士通テンさんはトヨタのクラウンにカーオーディオを納入してる。だから、このCDを一緒につけたらどうか、と。そうしたら、クルマを買った人は最初から音楽が聴けるでしょ。富士通テンさんの役員も、それは良いアイデアですね、なんて言ってくれてたんだけどなあ。結局付かず(笑)
シャンパンミュージックには、季節に応じた選曲があるんです。だから、クルマのバックミュージックにも合うんですよね。ドライブのね。

ともかくたくさんの譜面があるんです。ハワイアンからグレン・ミラー、有名なソングブックの『1001(センイチ)』、ラテン、なんでも出来るんですよね、シャンパンミュージックは。


●神戸北野クラブを皮切りに、再びトランペットを

たまたまその頃の北野クラブでバンドリーダーをしてた人がいまして、それは僕がかつて岩国で知り合った人だったんですが、彼が突然僕を訪ねてくれたんです。バンドを作ってくれないか、と。お金がかかりますよ、と話すと、それはかまいません、と。それでまずは1年契約でやることにしたんです。譜面は僕の東京時代のものがあるので、それを提供します、と。必要な編成を満たすメンバーを集めてやり始めたんですが、ぜんぜん演奏できないんです、その彼らは。簡単な譜面のはずなのに、出来ない。

昼間に20日間くらいバンドで練習したんですが、集めたメンバーはどの曲も演奏できない。これはダメ、ああこれもダメか、と。あ、これはまあまあか、とか。結局30曲くらいはなんとかなりそうだ、と。
出来ないメンバーに対して怒ってばかりだと僕もイライラする。出来ないものはどんだけやっても出来ないんですね。一番簡単なことが出来ないと先に進めない。
東京では、ミュージシャンはピンからキリまでいるので、ちょっとギャラを払えばコレくらいのレベルのミュージシャンを呼べる、もうちょっと払えばもっと良いミュージシャン、と言う具合に、層が厚くてすぐに集めることが出来た。関西ではそうはいかなかったですね。

一年経って、なんだか僕もノイローゼみたいになってきてね。でも幸い僕はバンドリーダーにはなってなかったので、それは救いでした。リーダーになったら店に気を遣わなきゃいけないしね。
それでもう辞めます、と話をしまして。それでまた仕事をする気がしなくなって、3年近く遊んでました。

「片岡さん、八代亜紀の伴奏があるんですが」
「どこで?」
「四国です」
「四国!?(笑)じゃあ、旅行がてら行こうか」

そんなことをやりながらね。

宝塚の仕事をしたこともあります。
「片岡さん、『ベルサイユのばら』というのが始まるので、手伝ってくれないか」
トランペットを一本探してるらしい。しかしその時の宝塚は安いんですよね、ギャラが。なんでこんなに安いの?と(笑)。
レギュラーのバンドに入ったんですが、楽しかったですけど、クルマ運転してごはん食べてガソリン入れて、なんてすると、残らない(笑)。びっくりする安さでした。レギュラーもなく遊んでた時期だからやりましたけど、普通だったら行かないでしょうね。関西のギャラは、東京の3分の1くらいだった。

東京では、事務所がギャラの相場をわかってるわけです。僕のギャラはどこの事務所も知ってますし、僕も下げないわけです。それが当たり前だったし、事務所もそれを理解してました。それは僕だけじゃなくて、ミュージシャンの世界はそうでした。誰それはいくら、という風に。ギャラが下がるということはなかったです。余分に入れておきました、というのはありましたけどね。

でも関西はびっくりしました。関西テレビの録音があったんだけど、大阪までクルマで行くのは怖いから神戸の駐車場にクルマを入れて電車に乗って関テレに入って録音して、ごはん食べて帰って、クルマを取りに駐車場でお金を払ったら、500円も残ってない(笑)
もうイヤになってねえ。

東京のフジテレビでは『小川宏ショー』をやってましたけど、演奏は10分か15分で最初は3000円くらいでしたが、最後の頃は9000円くらいになってました。昭和44年くらいなので、その頃の相場で考えると、とっても良いギャラだったと思います。NHKの『歌はともだち』という子供向け音楽番組では、1本一万円でした。その頃の大卒初任給は1万5千円くらいの時代です。一年で契約すると、年間48回分あって、暮れの頃は特別番組もあるんですが、ともかく48回分を先に一括で振り込んでくれるわけです。
僕もまだ遊びたい年齢だったので、48回全部を僕が出演するのではなく、半分は知り合いのトランペットに頼むわけですね。もちろんNHKの了解は得て。そのトランペットにも、僕の振込記録を見せて、彼にはちょうど半分を支払って、キレイにしてました。

『歌はともだち』という番組は、毎週日曜日の夜の6時か7時くらいから放映で、若者向け番組なんです。芹洋子とかボニージャックスがレギュラー。音楽的にはセミクラシックでした。僕は3年くらいやりました。

第4部へ続きます

gray line
片岡 学(かたおか・まなぶ)
ジャズトランペッター
昭和9年(1934年)12月 兵庫県明石市生まれ
高校生時代から神戸三宮のジャズクラブでトランペットを吹く。卒業と同時に佐世保、岩国の米軍基地や神戸、京都のジャズクラブで演奏する修業時代を経て東京へ進出。スモールコンボのジャズから、ニューハードや東京ユニオンといった著名なオーケストラにも在籍し、ジャズクラブやテレビ、ラジオなど様々なステージで活躍。昭和47年(1972年)から神戸に移住。北野クラブやテレビなど多くのステージを経て、80歳を目前にした現在でもなお現役。マイペースで神戸を中心に音楽活動を続ける。
神戸の再度山にある日本料亭『鯰学舎』、併設するジャズ喫茶『Cafe はなれ家』のオーナーでもある。

鯰学舎
【公式サイト】

gray line Copyright 2013- Manabu Kataoka / Banshodo, Written by Iku Ohashi, Sanshiro Matsui, Teruyuki Yoshida, Noriiko Hirata, All Rights Reserved.