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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第125回

アローン・アローン・アンド・アローン
日野皓正
撰者:吉田輝之


【Amazon のディスク情報】


こんにちは、1月に心臓のエコーの検査をした際に女医さんから、「吉田さん!あなた!!たいへんですよ!!!心臓の弁が二つしか動いていませんよ!!!」と言われてしまい、現実逃避のためこの文章を書いている吉田輝之です。

さて、今週の一枚は「ALONE、ALONE AND ALONE/日野皓正カルテット」です。



数年前、日野さんが70歳になったという記事を雑誌で読んで、ある感慨をもってしまった。しかしそれより20年前、日野さんが50歳を超えたということを知った時はかなりショックだった。僕はその時32歳だったが18歳も年が離れていたのかと驚いてしまい、もう「ヒノテル」と呼ぶのは止めようと思った。

(これは僕だけではないと思うが)僕は日野さんのことを中学生の時に知ってから、ずっと「ヒノテル」もしくは「日野皓正」と呼んできた。イメージ的には1960年代から70年代半ばまでが「ヒノテル」、1975年にアメリカに渡ってからが「日野皓正」だった。
僕そして僕の5歳前後の年齢のジャズファンは無意識のうちにかなり年上の日野さんを「同世代」と勝手に思い込んでいた。
そのことに気付いた時から、「これからは日野さんと呼ばなければ」と思った。
しかし日野さんが、中坊から「ヒノテル」と呼ばれているのを当時知ったら怒るだろうな。(以下「日野さん」と「日野皓正」が混在します)

1960年代後半から70年代後半までのジャズという枠組みをはるかに超えた日野皓正の圧倒的な「カリスマ性」「スター性」を今の若い人達に伝えるのは実に難しい。
レイバンのサングラス(これは70年代を象徴するアイテムだ)をかけ、細身(今で言う細マッチョ)の肉体を最先端のファッションに身を包み、体をよじらせて演奏するその姿。僕は日野皓正のライブを観ていないのだが、映像や写真から伺えるその姿は実にかっこよく、「時代の寵児」という言葉がこれ程ぴったりくる人は他にいなかった。

しかし何よりも我々、当時の日本のジャズファンは「ヒノテルこそ世界最高峰のトランペッターだ」と信じていたのだ。
当時の日野皓正の実力は世界的にみてもずば抜けていた。70年代において、すでに「違う世界」に行ってしまったマイルス・ディヴィスは比較の対象にはならないが、アメリカでも比肩できるトランペッターはフレディー・ハバード、ウディ・ショー、チャールズ・トリバーぐらいだろう。
そして、4歳から父親にタップとトランペットを教えられた日野皓正はアメリカンジャズの感覚を完全に修得していただけではなく、日本人としての感性を演奏で表現できた存在だった。アメリカのジャズマンが持つものを全て持ち、彼らが持っていないものを持ち合わせていたのだ。
当時、「ジャズ」が単なる音楽ではなく、「思想」「信条」「生き方」にいたるまでのキーワードであった時代において、彼は全てのジャンルの中でも世界的なレベルにある傑出した表現者だった。

10代の少年にとって、ある種の憧れと親しみ、そして大いなる勘違いをもって「彼こそ僕らの世代の最先端の表現者」と自分達と「同世代」と思い込み「ヒノテル」と呼んでいたのは仕方がないことであった。



70年代の半ば僕が最もよく聴いた日野さんのレコードはenjaから出された「TARO‘s MOOD」だ。1973年ドイツのクラブ「ドミシル」でのLIVEアルバムだ。メンバーは益田幹夫(p)、池田芳夫(b)、日野元彦(ds)、今村祐司(per)。
当時FMでこのレコードの「アローン・アローン・アンド・アローン」を聴いて感動し、少し高かったが無理してレコードを買った。レコードの裏ジャケットには直筆の「アローン・アローン・アンド・アローン」の五線譜が乗っている。
全編まさに『寄らば切るぞ』という鬼気迫る演奏で、特に「アローン・アローン・アンド・アローン」は、それはそれは息が詰まりそうな14分25秒間だ。

当時(というか今でもそうなのかもしれないが)「アローン・アローン・アンド・アローン」は日野さんの代名詞だった。おそらくこの曲は日本のジャズマンが作った最も有名なオリジナル曲と言ってよいだろう。

確か日野さんはこの曲を作ったのは19歳と聞いたことがある。極めて浮遊感あふれた美しいバラードで他に類似したメロディーの曲が思いつかない印象的な曲だ。

最初は曲名がなく、のちにシャープ・アンド・フラッツに入るアルトの鈴木浩二氏がベートヴェンの遺書の一節から名づけたという。

ベートヴェンの遺書といえば「ハイリゲンシュタットの遺書」のことだろう。1827年3月26日、べートヴェンが亡くなった翌日、棚の中から見つかったハイリゲンシュタット(今のウィーンの一部)の甥にあてた手紙だ。
この手紙は、彼が亡くなるずっと前、31歳の1802年10月に書かれており、実際には甥には送られてはいなかった。

内容を抜粋すると、
「おお、君たち、人々よ。君たちは私のことを片意地な気違いじみた、または人嫌いと思い、あるいはそう噂している。」
「君たちはそう見える秘密の理由を知らないのだ」
「6年来私は病の治る望みを年々裏切られて、とうとう慢性のものと認めざるを得ない。」「人々を遠ざかり孤独な生活を送らざるを得ないのだ」
「君たちの仲間に入りたくてもそれを避けている私を見ても許してくれ。私の不幸はそのために人から誤解されるに違いないので私は2倍も苦しいのだ」
「孤独、まったくの孤独」
「私は危うく自分の命を断とうとした」
「私を引き止めたのは芸術だった。ただこれのみだった」
「冷酷な死神が笑って私の息を止めるまで自分の反抗の決意は続かなければならない」



鈴木浩二氏はおそらく「孤独、まったくの孤独」
という箇所から引用したに違いない。
音楽家ながら難聴となり、周りの人々を避け、孤独のどん底にあり自殺を考えたベートヴェンが死を思い止まったのは芸術のためだった。

この手紙に感動した鈴木氏はその一節を友人の作った美しいバラードの曲名として捧げたのだろう。

もともとこの曲を初めて録音したのは日野さんではなくてブルー・ミチェルだ。

1965年1月、日野皓正は銀座「ジャズ・ギャラリー8」に鈴木宏昌(p)、鈴木勲(b)、日野元彦(ds)と出演していた。第二回ドラム合戦で来日していたブルー・ミッチェルとジュニア・クックが偶然その場に来ていた。

日野の「アローン・アローン・アンド・アローン」を聴き感動したブルー・ミチェルは楽譜をもらい、1965年7月にブルーノート「DOWN WITH IT」で「ALONE、ALONE AND ALONE」をA面の3曲目に吹き込んだのだ。確かレコードの作曲者クレジットでは「HINO」としか記載されていなかったはずだ。

他のメンバーはジュニア・クック(ts)、チック・コリア(p)、アル・フォスター(ds)、ジーン・テイラー(b)。ブルー・ミッチェルは日野皓正の演奏は一回しか聴いたことがないはずなのに、よくぞここまでと言える程この曲の雰囲気をつかんでいる。

ブルー・ミッチェルは来日して日野さんに会うたびに「ヒノ、この曲の印税はお前のために貯めているからな」と言っていたらしい。ブルー・ミッチェルは1979年5月に亡くなるが、その訃報をツアーでベルリンに向かう飛行機の中で知った日野さんはベルリンのホテルで30分である曲を書き上げた。「ブルー・スマイル(ブルー・ミッチェルの微笑み)」だ。ええ話やな。

以前、松井さんが紹介されていた銀巴里セッションの後、日野皓正が白木秀雄クインテットに参加したのは1964年、21歳の時だ。1965年10月に白木秀雄クインテットは「ベルリン・ジャズフェスティバル」に呼ばれ、ヨアヒム・ベーレントのベルリンのスタジオで「サクラ・サクラ・ミーツ・ジャズ」を吹き込み「アローン・アローン・アンド・アローン」が初めて日野皓正によって録音された。

そして1967年11月、タクトから出された初リーダーアルバムが「ALONE、ALONE AND ALONE/日野皓正カルテット」だ。表題通り、「アローン・アローン・アンド・アローン」の2回目の録音が収められている。メンバーは大野雄二(p)、稲葉国光(b)、日野元彦(ds)だ。
ちなみに、同年の5月に日野さんはスイング・ジャーナルの人気投票のトランペッター部門で初めて1位となっている。



僕は2年前に大阪のSEEDでこのオリジナル盤を買って、30年ぶりにこのレコードでの「アローン・アローン・アンド・アローン」を聴き感動した。先に述べた「TARO‘s MOOD」の「アローン・アローン・アンド・アローン」の鋭く張り詰めたバージョンとは異なる、朝もやのなかのような柔らかく広がりのある演奏だ。昨日作った曲を今日初めて披露したというような初初さに満ちている。

同じ「ALONE」が付くジャズナンバーと言えば何と言っても有名なのはマル・ウォルドロンの「LEFT ALONE」だ。晩年のビリー・ホリデイの伴奏者であったマルがビリーに捧げた名曲だ。たとえビリー・ホリデイについて何も知らなくても、もう最初のマルのピアノの一音から「一体過去に何があったのですか!」と叫びたくなるような過剰までの「孤独感」「物語性」に満ちている。

対して、日野さんの初アルバムでの「アローン・アローン・アンド・アローン」の演奏からはその曲名に反して「孤独感」も、また「物語性」という要素も僕にはまるで感じられないのだ。

僕はこのレコードの「アローン・アローン・アンド・アローン」を聴くと、ある19歳の青年を想像してしまう。少年ぽさを残した青年は「孤独」ではない。厳しいが温かい両親と、仲のよい兄弟、可愛い恋人がいるかもしれない。
しかし、そのような青年でも「自分はこれから一人ぽっちで生きていくんだ」とつぶやくことはあるだろう。
それは19歳の時の彼であり、あなたであり、僕かもしれない。

「ALONE、ALONE AND ALONE」はこれから物語をつくっていこうとする者に捧げられた曲だ。


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