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第108回
番外編:ゴスペルと世俗音楽(2)
Precious Memories
The Original Five Blindboys Of Mississippi



プレシャス・メモリーズ
オリジナル・ファイブ・ブラインドボーイズ・オブ・ミシシッピ
撰者:吉田輝之



Precious Memories
The Original Five Blindboys Of Mississippi
【iTunes のディスク情報】

僕は、このレコードを聴き、とてつもない衝撃を受けた。特に「Our Father」には完全に呑まれてしまった。ミシシッピのリードボーカリスト、アーチー・ブランリーはゴスペル史上、最大のハード・シャウターと言われている。このレコードは彼が1960年に亡くなり、文字通りその追悼として彼らのシングル盤を集めて出したPeacockレーベル初めてのLPレコードだ。僕は「絶対矛盾的自己同一」という哲学用語の意味が、アーチー・ブランリーを聴いて初めて理解できた。人が人として猿から分化して、いったいどれ程の人が歌ってきたか、その歌声の全てを確認することはもちろん不可能だが、間違いなくアーチー・ブラウンリーは20世紀のアメリカ黒人社会が生んだ人類史上、最高にして最大、そして最強の歌手だ。


「Our Father」のオリジナル78回転盤シングル。




ゴスペルの神髄〜ブラント・ボーイズ・オヴ・ミシシッピ1950-1974
The Original Five Blindboys Of Mississippi
【Amazon のディスク情報】

僕が能書きを述べるより、とにかく全盛時代のアーチー・ブラウンリーをリードとするブラインド・ボーイズのレコード、特にとうようさんが未LPだった彼らのPeacock時代のベストを含めコンパイルしたCD「"Blind Boys Of Mississippi1950-1974" ゴスペルの真髄 (Universal Victor Mvce-24513)」を聴いてショックを受けて下さい。



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こんにちは、仕事が終わらないのも、この原稿を書けないのも、さらには地域紛争が勃発しているのも全て「3月からの火星の逆行が原因だ」と決めつけて居直ってきましたが、今年も5月に入り、かなりあせっている吉田輝之です。
万象堂の当連載の皆様、貴重なお時間を使ってこの文章を読んで頂いている皆様、原稿が遅れて申し訳ありません。

さて前回に続き(と言っても殆ど本論に入っていませんが)、テーマは「ゴスペル(セイクリッド・ミュージック)と世俗音楽(セキュラー・ミュージック)」です。

すみませんが、今週の一枚もJazzではありません。とりあえず、
「Precious Memories / The Original Five Blindboys Of Mississippi」です。



1978年の4月のことだ。日は15日だったと思うが記憶は曖昧だ。場所は大阪フェスティバル・ホールだった。受験に落ちて浪人生となった僕は一人でソウル歌手のオーティス・クレイ(Otis Clay)のコンサートに出かけた。

当初、O.V.ライトの公演が予定されていたが、O.V.が「急病」のため代打でオーティス・クレイが呼ばれたのだ。「急病」と言われ今なら事情は察しがつくが、当時は本当に「病気」だと思っていた。
それはともかく、O.V.ライトのチケットを買った当時のソウルファンはオーティス・クレイならその実力からして誰も文句は言わず、チケットを買い戻した者は殆どいなかったはずだ。
70年代、日本でもブルース、サザンソウルブームがあり、当時メンフィスのHIレコードでLP2枚を出していたオーティス・クレイは一部のソウルファンから実力派として知られた存在だった。しかし、一般の洋楽ファンにとって全く無名の黒人歌手にすぎず、前月に来日したボブ・ディランに比べればマスコミで全く話題になっていなかった。当時のサザンソウルの日本でのレコードマーケットの規模なんて、まぁ、豆腐業界の杏仁豆腐以下の存在だっただろう。

しかし、このコンサートは、その場に行った者にとてつもない衝撃を与えることになるのだ。
4月13日の東京虎の門ホールでの公演を聴いた、中村とうようさんは同月21日の朝日新聞の公演評で以下の絶賛記事を書いている。

『4月13日、東京・虎ノ門ホールでソウル歌手オーティス・クレイを聞いて、涙が出るほど感動した。ほかの聴衆たちとともに僕も立ち上がって夢中で拍手し、声援を送った。これまでに僕が出会った数多いコンサートの中でも、これは間違いなく最高のものだった。
深い声、練り上げた節まわし、強烈なリズム感覚、みごとにコントロールされたダイナミックス、歌と一体化した自然なアクション、持ってる力のすべてを出し切る誠実さ・・・といった様々な要素を列挙したところで、それでオーティス・クレイの素晴らしさを十分に伝えたことにはならないような気がする。
彼はそれらの美点のすべてを備えていたが、それ以上に、何か完全無欠なものに出くわしたという実感が僕を圧倒した・・・と言うべきだと思う。』

とうようさんは当時間違いなく、洋楽のコンサート(ライブ演奏)を最も多く聴いてきた日本人の一人だ。その氏をして「これまでに僕が出会った数多いコンサートの中でも、これは間違いなく最高のものだった。」と言わしめた、油井正一氏の1966年7月におけるジョン・コルトレーンの来日公演評「生きていてよかった」に匹敵する、いやそれを上回る絶賛評であった。

このコンサートに行った多くのヒトは黒人音楽ファンと言ってもディスコで踊りまくるようなタイプではなくて、座ってじっくり聴くタイプが圧倒的に多かったと思う。しかしコンサートが進むにつれてこの場にいた全員が立って衝かれたように無意識に叫んでいた。もし大阪公演の録音テープがあれば間違いなく僕の叫び声も聞けるはずだ。
そしてこの公演が終わった後、皆「茫然」としていた。歌手の大沢誉志幸が「このコンサートの後、どうやって家に帰ったか記憶がない」という旨の発言をしていたが、このコンサートに行った者は皆そのような状態になっていたのだ。

この時の東京公演はレコードにもなり、それは世界的に「Magnificent Live」との評価を得ている素晴らしいものだ。しかし「あの時の異常な空気感」はレコードでは伝わってこない。

とうようさんは上記の公演表の後も、この時のLiveについて「黒人音楽、黒人文化の精髄」でありオーティス・クレイは「異人種・異民族である日本人にもその精髄を伝え得る伝道者であった」旨の文章を書かれている。
その通りだ。しかし、あの「空気感」を体験した者にとって「黒人文化の精髄とは何か」ということについて「極めて素晴らしいこと」だが、もしかして「音楽という“趣味"から大きくはみ出してしまう危険なもの」と僕は感じた。



子供の頃から「黒人霊歌(二グロ・スピリチュアル)」は知っていた。日本人の歌手やコーラスグループによる「ジェリコの戦い」や「ダウン・バイ・ザ・リバーサイド」などはテレビやラジオでよく流れていたのだ。同時に黒人の宗教音楽は「ゴスペル」といも言われていたが「黒人霊歌」と「ゴスペル」は同じだと当時は思っていた。一般的に知られていたグループは「ゴールデンゲイト・カルテット」であり歌手では「マヘリア・ジャクソン」だった。

しかし黒人音楽を10代の半ばから聞き出し、
「レイチャールズやオーティス・レディング、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケットといった偉大なソウル歌手のバックボーンにゴスペルがある」
「アート・ブレイキーのモーニングにはゴスペルの影響がある」
「ブルースだけではなくゴスペルを聞かないと黒人音楽はわからない」旨の文章を、とうようさん達が書かれているのを読み、大いに「ゴスペル」に興味を持つことになった。

只、当時ゴスペルのレコードなんてマヘリア・ジャクソン以外は殆ど日本では出でいなかった。70年代半ばまで僕だけではなく黒人音楽ファンを含めてマヘリア・ジャクソン以外ゴスペルの歌手やグループを殆ど知らなかったはずだ。
これはゴスペルのレーベルの殆どがインディーレーベルで日本のレコード会社と契約しておらず、レコードをイシューできなかったのが一因だ。しかしもっと根本的な問題として、日本人のリスナー自身に「日本人が黒人のキリスト教音楽を理解できるのか」という疑問がありゴスペル音楽を遠ざけていたと思う。大橋巨泉氏がジャズ評論家時代に、確かマヘリア・ジャクソンのニューポートジャズフェスティバルでのレコードについて「僕はキリスト教徒ではないのでこのレコードの評論はできない」旨の文章を書いていたはずだ。これは現在でも基本的に同じで、多くのブルースファンやジャズファンが案外ゴスペルを聴いていないのは、そのような心理的なガードがかかっているせいだと思う。

しかし、1976年にミュージック・マガジンが「ゴスペル特集」を組みようやく代表的な歌手やグループがわかったのだ。その特集ではソロ歌手以上に50年代のゴスペルカルテットの重要性が説かれ、サム・クックやウィルソン・ピケットなど有名なソウル歌手の殆どがカルテット出身ということであった。とうようさんは、その中でも特にアーチー・ブラウンリーをリードとするオリジナル・ファイブブラインドボーイズ・オブ・ミシシッピを極めて高く評価しており、彼らのベスト録音(SP盤音源)が収められていないとしながらも手に入るLPとしてPeacockレーベルの「Precious Memories/The Original Five Blindboys Of Mississippi」(1960年)を挙げていた。

「手に入るレコード」ととうようさんが述べていても、すぐに手に入るレコードでは勿論なかった。当時の関西で黒人音楽の輸入盤を扱っていたのは大阪心斎橋の阪根楽器店、堺のSam'sレコード、梅田のLPコーナー他数店あった。当時、僕が知っていたのは阪根楽器店だけで、このレコードがどうしても欲しくなり、阪根楽器店まで探しにいったが置いていなかった。

しかし、以前このコラム『クリフォード・ジョーダンの伝説を追え(第27回、第31回)』でも登場してもらった友達の柴田君のお父さんが当時、レコードなどの輸入商をしており、柴田君を通じて彼のお父さんにこの盤をPeacockレーベルから取り寄せてもらった。1月ぐらいたって届いたが、確か2,000円ぐらいだった。原価代だけで郵送費も利益も入れていなかったと思う。(柴田君のお父さん、ありがとうございます。私あれから30年以上レコ屋巡りをしておりますが、このレコードのPeacock原盤は他に一度も見たことがありません)。
しかし、柴田君のお父さんも「変わった子」だと思っただろうな。

僕は、このレコードを聴き、とてつもない衝撃を受けた。特に1951年にビルボードのR&B部門でベスト10入りした歴史的な録音である「Our Father」には完全に呑まれてしまった。



ファイブ・ブラインド・ボーイズ・オブ・ミシシッピ(以下「ブラインド・ボーイズ」)は1930年代後半にその名の通りミッシシッピ、ジャクソンの盲人学校の生徒5人により結成されたカルテットだ。グループの冒頭に「オリジナル」が付くのは、アラバマにも同じブラインド・ボーイズを名乗るグループがあるからだが、どちらのグループにしてもゴスペルを歌うようになったのは、障害をもつ貧しい黒人の彼らがお金を稼ぐための唯一の方法だったからだ。

ミシシッピのリードボーカリスト、アーチー・ブランリー(Archie Brownlee)はゴスペル史上、最大のハード・シャウターと言われている。このレコードは彼が1960年に亡くなり、文字通りその追悼として彼らのシングル盤を集めて出したPeacockレーベル初めてのLPレコードだ。

しかし、彼のことを単に「ハード・シャウター」と言うのは間違いだ。彼の歌声、唱法をたとえ黒人音楽ファンでも聞いたことのない人に説明することは絶対に不可能だ。

それは彼の声にはあまりに強大なエネルギーを持った相反する要素が同時存在するからだ。アーチー・ブラウンリーの声は
とてつもなく濁色でありながら、同時に限りなく透明であり
とてつもなく剛質でありまがら、同時に限りなく柔軟であり
とてつもなく強大でありながら、同時に限りなく繊細であり、
なによりも絶対的大歓喜と絶対的大懊悩を同時に大放出している。

僕は「絶対矛盾的自己同一」という哲学用語の意味が、アーチー・ブランリーを聴いて初めて理解できた。

人が人として猿から分化して、いったいどれ程の人が歌ってきたか、その歌声の全てを確認することはもちろん不可能だが、間違いなくアーチー・ブラウンリーは20世紀のアメリカ黒人社会が生んだ人類史上、最高にして最大、そして最強の歌手だ。

僕は初めて黒人音楽の剥き身の最もコアな部分を感じて、恐れとともに魅惑され、ブラインド・ボーイズに憑りつかれてしまった。当時僕はヘッドフォンでレコードを聴いていたが、ある日このレコードを間違ってスピーカーからも大音量で流してしまい、それを聞いた母親から後で、「あんた大丈夫。あんたがついに気が狂ったと思ったんよ」と涙ながらに言われてしまった。



彼は1925年10月19日に生まれだから、ジャズメンで言えば、ピーターソン(1925年)、マイルス(1926年)、コルトレーン(1926年)と同年代だ。
アーチー・ブラウンリーは聖職にありながら「ガソリン」と呼ばれるほどの大酒飲みであった。そのため、1960年2月8日にわずか35歳で穿孔潰瘍亡くなった。

ブラウンリーが亡くなる数か月前のことを、ブラインド・ボーイズと並び立つハードゴスペルカルテット「センセーショナル・ナイチンゲールズ」のリードだったジュリアス・チークスは述懐している。

『1959年、ナイチンゲールズとブラインド・ボーイズはニューオリンズのプログラムに同格で出演した。アーチーは病院を抜け出して出演していたが、がりがりに痩せておりとても歌えそうになかった。しかしアーチーはいつも通り、泣き叫ぶように歌った。自分が死ぬことを知っていたのだろう。グループが舞台を下りた後、彼は独り駆けもどって「I'm Laeve You In The Hands Of The Lord」を歌った。

あなたがたを、主の手にゆだねよう
あたながたを、主の手にゆだねよう
母親が死ぬ日をまえにして
わが子に向かっていうように
あなたがたを、主の手にゆだねよう

気がついたら私は楽屋で寝かされていた。アーチーの歌を聴き生まれて初めて気絶していたのだ。』


ブラインド・ボーイズはブラウンリーだけが凄いのではなく、グループとしても、これ程ぶ厚くダイナミックなコーラスは他にはない圧倒的な凄さだ。

いやぁ皆さん、もう私が能書きを述べるより、とにかく全盛時代のアーチー・ブラウンリーをリードとするブラインド・ボーイズのレコード、特にとうようさんが未LPだった彼らのPeacock時代のベストを含めコンパイルしたCD「"Blind Boys Of Mississippi1950-1974" ゴスペルの真髄 (Universal Victor MVCE-24513)」を聴いてショックを受けて下さい。

ミュージック・マガジンの特集がきっかけとなったのか、その後神戸や大阪のレコード店でもゴスペルのレコードをかなり入荷し、主だったカルテットもののレコードを手に入れることができ、またとうようさんの言うブラインド・ボーイズのベストとでもいう音源は別のレコード・CDで聴き、改めて衝撃を受けたが、始めて「トンデモもないものを聴いてしまった」と茫然とした経験から、やはりこのレコードに勝るものはない。「Precious Memories」は僕が今までに聴いたレコードで間違いなく最も衝撃を受けたレコードだ。

ただ、衝撃を受け憑りつかれたといっても、それはレコードという媒介を通してであり、正直、本当にゴスペルというものがわかったわけではなかった。いや、正直に言うと、強い衝撃を受けただけに、やはり日本人にはゴスペルという「黒人のキリスト教音楽」は真の意味でわかりっこないと思い込んでしまった。

そのほぼ1年後、オーティス・クレイのliveという「場」に身をおいて、今までにない絶対体験をしたのは前述した通りだ。しかし、その場では、クレイがゴスペル出身ということは知っていたが、ゴスペルバックグラウンドは意識していなかった。むしろ、この場にいた者の殆どがソウルという世俗音楽だと思っていたので妙な心理的バリアはなく自然に入り込んでしまったと思う。

ただこの後、前述したとうようさんの記事を読み、僕は「ソウル(世俗音楽)におけるゴスペル(宗教音楽)的要素」といったことに非常に興味を持つようになり、その後、貪るように黒人音楽を聴いていった。しかし、レコードを聴きあさるうちに、ゴスペルまたはゴスペル出身者の表面的な「メリスマ」や「シャウト」「スクリーム」といった唱法についてはわかってきたが、実は「ゴスペルの本質」といったものはこの時点でもまるでわかっていなかったのだ。

1985年、黒人音楽ファンのみならず世界中のポピュラー音楽ファンに衝撃を与えたレコードが発売された。「Live At The Harlem Square、1963/Sam Cook」である。僕はこのレコードを聴き、ようやくセイクリッド・ミュージックとセキュラー・ミュージックの関係が朧げながらわかるようになるのである。



すみません、番外編は次回まで続きます。(早く、本論を書かんかい!)



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