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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第104回
番外編:ゴスペルと世俗音楽(1)


アメージング・グレース
アレサ・フランクリン
撰者:吉田輝之


【Amazon のディスク情報】


こんにちは。今年は初詣以外、正月らしいことは一切しなかったというかできませんでした。ちなみに、初詣は恒例の生田神社の他に、生まれて初めて関帝廟に参拝しました。その後、高村光太郎の詩の一節「らくらくと、のびのびと、あの空を仰いでわれらは生きよう。泣くも笑うもみんなといっしよに、最低にして最高の道をいかう」とつぶやきながら、トボトボ歩いて家路についた吉田輝之です。

今回は『The Kind of Jazz Night』の「勝手に番外編」の前半です。
ジャズの話は全く出ません。すみません。
今回の一枚はとりあえず「ARETHA FRANKLIN/AMAZING GRACE」です。



12月25日のクリスマスの晩、知人から「仙人が亡くなった」と聞き、「まさか」と絶句してしまった。
「ソウル仙人」こと藤田先生は僕より10歳ほど上だから、まだ60代前半だ。
早すぎる死が信じられなかった。しばらくして悲しみが襲ってきた。

蒲田のある音楽バーでたまたま隣に座った人から、「仙人」とでも言うべき音楽リスナーが存在することを聞いたのは20年以上前だ。
その人が言うには、
「仙人」はある音楽ジャンルにおいて膨大なレコードコレクション、桁違いの知識、卓越した見識を持つが、我々のように日常的に音楽バーに集まりペチャクチャ音楽について喋ったり、レコード屋を回ったり、音楽雑誌や書籍で情報を得たりなんかしない。
「仙人」は人里離れた地に住み、たまに下界に下りてきて、音楽バーなどに顔を出すが、静かにお酒を飲んでいるだけで音楽のことなんて全く言わない。
しかし、音楽に真面目で熱心なマスターやお客さんに対して、何かの拍子にその膨大な知識や見解の片割れを開けかすことなく、実にさりげなく示す。
「一体、このヒトは何者!」と周りの者を驚愕させる存在である。
レコードを買うのも一般的には全く知られていない限られた店か、超マニア間でなされる海外のオークションに参加するぐらいである。
音楽ジャンルは様々だが、「仙人」とはいわば「究極の音楽リスナー」だ。

正直、その「仙人」の存在を聞いたとき、一種のジョーク、音楽好きの今で言う「都市伝説」のようなものと思っていた。
しかし、もう8年ぐらい前だろうか、神戸のとあるソウルバーSのマスターからある一枚のCD−Rを見せられた。
半年に一度くらい来るが全く音楽のことを話したことのないお客さんが帰り際、
「このようなCD−R(コンピレーション)を遊びで作ったのですが、まあ一度気楽に聞いてください」と言って置いていったという。
リストを見ると恐ろしいようなサザンディープソウルの、それも大半が僕も未聴の噂だけで聞く、または聞いたこともないシングルオンリー(未LP、未CD)のウルトラレア盤オンパレードではないか。そしてマスターに実際に聴かせてもらうと「究極のディープソウルコンピレーション」というトンでもないモノで、とても「気楽に聞ける」ものではなかった。

「マスター、その人は仙人だよ」と僕は一度も会ったことがないのに断言した。

しばらくして、偶然そのソウルバーで「仙人」と知己を得た僕は、仙人がそのバーに来るとマスターからメールが入り、仕事をほったらかして飛んで行き、延々と質問攻めをして、ついにはマスターから「吉田さんは3時間も仙人相手にジェームズ・カーの話をしている」と呆れられてしまった。

「仙人こと藤田先生」と書いた通り、仙人は当時、神戸の山側にあるスポーツで有名な私立高校の教頭先生で、数ヶ月に一度ぐらい教育委員会がらみの会合があると泊りがけで三宮という「下界」に「下山」してきていたのだ。
そして藤田先生はそのバーでは「仙人」が通り名になってしまった。

5年程前、そのバーで仙人を含め5人ぐらいで話しをしていた。
一人が、当時たいへんな話題になったアレサ・フランクリンの未発表曲やレアトラックスばかり集めたコンピレーションについて「あのCDは凄いですね」と話しかけると、仙人は「そのCDは聞いていないんだ」と答え、周りの者は「えッ、聴いていないんですか」という表情を浮かべた。
思えばそれまで仙人がアレサ・フランクリンの話をしたことはなかった。結局、アレサの話はそこで途切れた。

気になった僕は、しばらくして仙人に「アレサ・フランクリンをどう思うか」と聞いた。
仙人は少し考え込み「避けていたんだよ」と短く答えた。
その答えを聞き、僕は大きくうなずいてしまった。
そうなのだ、70年代において我々ディープソウルファンの多くはアレサ・フランクリンを避けていたのだ。

判官びいきもあったと思う。マニアになるほどどうしてもマイナーな存在に目が行く。QUEEN OF SOULと言われた大メジャーなアレサ・フランクリンをあえて無視するという気分はあった。
いや、正確に言うと僕らはメジャー、マイナーということは別にして、アレサを歌い手として「ずば抜けた」存在とは認めていたが、ずば抜けた存在のなかでも「抜きん出て」ずば抜けた存在とは思っていなかったのだ。
例えば、僕個人ではリンダ・ジョーンズの方がチカラではアレサより上だとずっと思ってきた。

しかし避けてきた本質的な理由は、アレサ・フランクリンが「怖かった」のだ。
だって怒鳴れそうじゃない。殴られそうじゃない。蹴られそうじゃない。
だって噛まれそうじゃない。襲われそうじゃない。吊るされそうじゃない。

あなた、だいたいアレサ・フランクリンが歌っている内容は

「なめとんのか、このダボ」 RESPECT
「なに考えとんねん、われ」 THINK


ですよ。

さらには、あのアレサ・フランクリンに

「うちあんたとおうて、
初めて自分が生(き)の女ってわかったんよ」
YOU MAKE ME FEEL LIKE A NATURAL WOMAN


と言われて、正面から受け止められる漢(おのこ)が、この疲弊した日本に存在するというのか。

アレサ・フランクリンがアメリカの「フェミニズム(ウーマンリブ)」において極めて大きな、歴史的な存在であることを知ったのは随分後になってからだ。アメリカの黒人社会において男性は女性に暴力をふるい、家庭を顧みない。ある意味、黒人女性にとって「女性蔑視」は「黒人蔑視」より重たい問題だった。アレサ自身、夫でマネージャーであったテッド・ホワイトから酷い家庭内暴力をふるわれたのは有名だ。

アレサ・フランクリンは暴力的で身勝手な男性に対して正面から宣戦布告したのだ。

もちろん、70年代において僕らはアレサがフェミニズムの観点から重要な存在だったなんて知らない。しかし男性として「本能的」に恐れていたと思う。

先に記したとおり、僕は長年、アレサ・フランクリンは歌手として抜きん出てずば抜けた存在とは思っていなかった。
しかし、80年代の後半に、その10年以上前に発表されたアレサ・フランクリンのゴスペルライブを収めた「AMAZING GRACE」に収録されたマーヴィン・ゲイのカバー「WHOLY HOLY」を初めて聞いたとき、僕は畏怖という言葉をはるかに超えた感情に襲われた。
アレサ・フランクリンの過去の歌唱において、そして今後においても決して顕在化しないであろう隠された「途轍もなく巨きな存在」のほんの僅かな一端を感じ、僕は完全に彼女の軍門に下ってしまった。



今回はこれで終わりです。
次回、後半では、「ゴスペルと世俗音楽」について述べたいと思います。


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