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jazz night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
媚びないジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。

第100回
Kind of Jazz Night 連載100回記念
片岡 学 インタビュー

第2部



第1部 少年時代
●ジャズとの出会い
●佐世保、岩国、神戸、京都の修業時代

第2部 ジャズでメシを食う
●東京時代、いよいよプロへ
●コンボからオーケストラへ
●シャンパンミュージックとの出会い

第3部 東京から神戸へ
●ニューハード、東京ユニオン、スターダスターズ時代
●神戸への帰還
●神戸北野クラブを皮切りに、再びトランペットを

第4部 70歳を越えて
●70歳にして初めてラッパを習う
●ジャズは人との出会いそのものだった



片岡 学(かたおか・まなぶ)
ジャズトランペッター
昭和9年(1934年)12月 兵庫県明石市生まれ
高校生時代から神戸三宮のジャズクラブでトランペットを吹く。卒業と同時に佐世保、岩国の米軍基地や神戸、京都のジャズクラブで演奏する修業時代を経て東京へ進出。スモールコンボのジャズから、ニューハードや東京ユニオンといった著名なオーケストラにも在籍し、ジャズクラブやテレビ、ラジオなど様々なステージで活躍。昭和47年(1972年)から神戸に移住。北野クラブやテレビなど多くのステージを経て、80歳を目前にした現在でもなお現役。マイペースで神戸を中心に音楽活動を続ける。
神戸の再度山にある日本料亭『鯰学舎』、併設するジャズ喫茶『Cafe はなれ家』のオーナーでもある。

鯰学舎
【公式サイト】



インタビュー
2013年7月27日
神戸市再度山 鯰学舎にて

取材:大橋郁、松井三思呂、吉田輝之、平田憲彦
協力:片岡美奈子氏
企画:松井三思呂
編集:平田憲彦
発行:万象堂

(C) All Rights Riserved 2013 Manabu Kataoka/Banshodo

さんふらわあ ジャズナイト
フェリーで揺れる、ジャズの夜。
さんふらわあ JAZZ NIGHT 公式サイトへ

ジャズ カフェ&バー Volontaire
東京赤坂でジャズなら
カフェ&バー、ボロンテール

ジャズ喫茶 jam jam
ゆったりした地下空間でジャズを満喫。
神戸元町のジャズ喫茶、jam jam

レコードバー ブラック
極上のサウンドをアナログレコードで。
神戸元町のレコードバー、BRAQUE。

ジャズバー Doodlin
ソウルでファンキーな夜を。
神戸元町のジャズバー、Doodlin'

バーインク
ALTECが生み出す極上のサウンド。
新神戸駅近くの隠れ家バー。


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▲目次へ

2011年に始まった万象堂Kind of Jazz Night、その連載100回を記念して、トランペッター、片岡学さんの2万字スペシャルインタビューを掲載いたします。
1934年生まれ、戦後すぐの混乱の時代に高校生になった片岡さんは、すでにトランペットを手にして少年ながら夜の神戸三宮でジャズを吹き始めました。2013年12月には79歳になる現在でもステージに立つ片岡さんはまさに、日本がジャズという文化を吸収し、発展させていく過程をそのまま生きてきたと言っても良いくらいの同時代性があります。
片岡学さんの視点を通じて、日本が歩んできたジャズの歴史を私たちは垣間見ることが出来ます。
4回に分けて掲載いたします。その興味深い日本のジャズ黎明期から現在80歳を目前にしたベテラントランペッターの物語。
お楽しみください。




第2部 ジャズでメシを食う

●東京時代、いよいよプロへ

大阪駅発11時前後の東京行き普通列車。電車賃は当時の学生割引で470円。東京までは16時間か17時間はかかったと思いますから、着くのは夕方四時頃です。東京駅に着いたときには汽車の煙で顔が真っ黒、駅のホームにあった水場で顔を洗ってね。メンバー7人、タクシー2台に乗って銀座の『ブルーシャドウ』というナイトクラブというかジャズクラブのような店に行ったんです。当時は有名なクラブでした。その日から仕事です。15日経ってようやくお金がもらえる約束でした。

東京に行く前くらいから親父にはいろいろ怒られました。大学に行くのか、ラッパ吹きになるのか、就職するのかと、おまえはどうするつもりなんだ、と。佐世保に行ったときのように、お金もあまりないから、すぐに帰ってくるよっておふくろには話しましてね。お金は4000円を手元において、あとはおふくろに全部あげて。どうして4000円だったのかな、よく覚えてないんだけど。

その4000円から東京までの電車賃470円を引いた額が手持ち資金。メンバーに今夜どこに泊まるのか聞いても、なにもアテがない。電話して探しても見つからず、結局300円くらいの木賃宿に泊まって。翌朝、みんなに聞いたんですよ、毎晩こうするの?と。最初に給料が出るまでの15日、よくなんとかなったなあと思いますね。

ところが、15日に出たはずの給料をマネージャーが持ち逃げしちゃった。高橋一徳って言って、僕らは『悪徳』って言ってたけど、あくどいマネージャーだったなあ。でもね、すごく良いバンドだったんです。そこで築地の『クラブレオ』という有名なナイトクラブがあって、そこに打診したらすぐ出演できることになりました。夜の7時から12時半くらいまでやってました。僕たちはベニー・グッドマンスタイルのジャズ、チェンジバンドはフィリピンのラテンバンド。僕はあまり吹くところがなくてね。アドリブだけ吹かせてもらったり。

東京に着いて1ヶ月も経たないうちに、キレイなオンナの人が声をかけてきたんです。「もしかして片岡くんじゃないの?」って。三宮の『モロッコ』で働いていた女性だったんですね。懐かしい話題になったんですが、ふと、「いまどうしてるの?」と聞くので、泊まるところは毎日探してるんです、という話をしたら、ウチにいらっしゃいと言ってくれる。
「お金は?」
「もう底をつきました」
そんな流れで、その人のお世話になることになって。不思議なものです。モロッコで吹いてたときは、その女の人とは話もしたことがなかったのにね。

バンドはその後、ホテル付きご飯付きという仕事を見つけることができました。給料は一人当たり1万8千円くらいだったかな、でもね、1万いくら、ホテル代と食事代を差し引かれる。それでも、部屋があるだけでもマシですね。

ある日のことですが、朝みんなで集合したときにドラムの姿が見あたらない。西野って言うんですが、どうしたんだ、と。ドラムセットもないぞ、と誰かが言うんですね。ドラムセット一式持って夜逃げですよ。もう堪えられなかったんでしょう。考えてもしょうがないのですぐに事務所に電話をして、代わりのドラムを探してもらった。それで来てくれたのが素晴らしいドラムだったんです。それが平岡精二さんのところにいた、深見一太です。彼とはそれ以来今でもつきあってます。50年以上になりますね。

バンドはいろいろと仕事を頂けるようになって。力道山刺殺事件で有名な赤坂の『ニューラテンクォーター』でやったりとか、来日したヘレン・メリルの伴奏をしたりとか、いろんなタレントさんの伴奏もね。最高も最低も、いろんな仕事がありました。赤坂の『月世界』ではエラ・フィッツジェラルドの伴奏もやりました。



ヘレン・メリルと
※クリックすると拡大します


小編成のバンド、つまりコンボですが、それは年中解散とか結成とかを繰り返すんです。仕事があると結成、なくなると解散、とか。ギャラもいいかげんで。事務所もミュージシャンを大切にしないでピンハネばっかりなので、良いバンドなのに払いがルーズ。東京に実家があって、そこに住んでいるミュージシャンはギャラにルーズな人が少なくなかった。僕のように地方から出てきている人間は、まず食べていかなきゃならない、部屋代を払わなきゃならないのでキツかったですね。


●コンボからオーケストラへ

その状態で7〜8年くらいやってましたが、コンボをやってたら貧乏ばかりしていることになると思いましたね。良いギャラの時もあるんですが、続いても半年で、それが終わると仕事がなかったり、の繰り返し。 解散と結成を繰り返す状態だから、リハもなく、ぶっつけ本番。キーも直前にバンマスが決めるんですね。当然、それができるメンバーを集めているので、ぶっつけ本番リハ無しでも演奏できるミュージシャンじゃなければ仕事はない、ということです。

菅野邦彦さんとは、僕が東京に行ってすぐの時に、早慶ジャズ合戦で一緒にやりました。僕は慶応チームのトラで。菅野は学習院だけどやっぱり慶応チームにピアノで入って。彼とも長い付き合いになります。

コンボではなく、オーケストラに入ると仕事が安定するんです。給料もちゃんと頂けますし、待遇も違うんですね。コンボをやってるとき、12月1日から1ヶ月、千歳の米軍キャンプで演奏がありました。年明けて1月から札幌のジャズ喫茶『マルゼン』で1ヶ月演奏。2月の前半は稚内の米軍キャンプ。札幌へ戻ってジャズ喫茶。やっと東京へ帰れるなあと思ったら、4月の前半はまた稚内に行ってくれと仕事が入る。昭和33年くらいのことです。

僕がやってたその頃のバンドは、ベニー・グッドマンスタイルじゃなく、モダンジャズでした。僕らは関西から来てることもあって気が付いたんですが、関西のジャズはみなウェストコーストなんです。でも、東京へ来たら、みんな真っ黒け。ガレスピーとかね。テナーを吹いてたミュージシャンはみなソニー・ロリンズばっかりです。アルトはチャーリー・パーカー。全部パーカー。
関西で黒いのを演っても誰も見ないんですよね。そりゃ白いピアノだとリズム隊が真っ黒のリズムでやっても合わないですよね。

渡辺貞夫さんとは、当時僕が一緒にやってたベースの原田政長とドラムの富樫くんと演奏させてもらいました。仕事が少ない時期に声がかかって渡辺貞夫さんとセッションしたりね。仕事が無いときは銀座のクラブへ行けば吹かせてくれました。

当時はプロのデキシーバンドはなかったんです。やってくれと言われれば僕らもできたんですけどね、そういうオファーもなかった。関西はみんなウェストコーストジャズで、ジャズミュージシャンはそういうもんだという認識がありました。
東京では、僕がやってたようなクラブなんかの仕事場でジャズをやるとクビになるんです。お客さんがいないとジャズをやるんですが、入ってくるとジャズを止めておとなしいムードミュージックのような静かな音楽をやるんですね。ジャズを演奏するんだったらジャズ喫茶へ行ってやれ、と店にしかられました。

そういった静かな音楽は、シャンパンミュージックという風に呼ばれてました。ただ、シャンパンミュージックといっても、簡単じゃなくて。傾倒している人がいれば別ですが。

仕事がない頃でしたが、帝国ホテルに呼ばれたことがありました。そこではシャンパンミュージックをやるバンドがあって、高見さんというバンドリーダーでしたが、それは素晴らしいバンドでした。徹底したシャンパンミュージックでした。

●シャンパンミュージックとの出会い

シャンパンミュージックは、いわゆるカクテルミュージックのようなものですね。Lawrence Welkというアコーディオンを弾くバンドリーダーの人が『オレがシャンパンミュージックだ』って言ったもんだから、他のミュージシャンがその“シャンパンミュージック”という言葉を使えなくなっちゃってね。そういう状況で僕がシャンパンミュージックなんて言っちゃったら、それはニセモノみたいに言われかねないということで、じゃあ、スウィートミュージックって言おうってことになったんです。内容はどちらも同じです。

仕事がなくなると立川のオフィサーズクラブへ吹きに行って、そしたらまたシャンパンミュージックをやることになって。そんなことで、シャンパンミュージックを演奏する機会が増えていったんですね。心地良いんだけど、このバンドでは半年も続けてたら眠くなってくるしなあって思ったけど。
でも、そういう機会をもらったことで、何年も後になって神戸に帰ってきたとき、北野クラブでシャンパンミュージックばかり演奏することができたんだと思ってます。後年に出すことになった僕のアルバムは、まさにスウィートミュージックが元になってます。

シャンパンミュージックは、簡単なんだけど難しいんです。一番シンプルな音楽なんだけど、二分音符と四分音符、八分音符でメロディをキレイに吹ける人ってのは、最近少ない。変調なく四分音符でずっとメロディを吹いてくださいって言うと、間が持たない人が多くてね。2ビートですから、特にリズム隊は余計なことをしたくなるんですよね、おわゆるオカズを入れたがる。ベースも同じですね。でも、それは余計なんですね、シャンパンミュージックでは。

シャンパンミュージックのような音楽が好きで、それをやってみたいと思うような人なら別ですけど、普通のミュージシャンは、いくら仕事だっていってもできないんです。つまり、ある程度自分を殺さないといけないんですね、演奏という意味でね。社交場の音楽だから、社交場にとけ込む音楽じゃないといけない。

1930年代から50年代くらいのオーケストラは、みんな白人ばかりのオーケストラだったんです。ガイ・ロンバード(Guy Lombardo & His Royal Canadians)もそうですが、世界で一つだけのボールルームをカナダに作って、世界中の大金持ちのお客さんがカナダまで聴きに行って、ホテルに泊まって、そんなことがあったのを思い出します。

僕がこのアルバムを出してからすぐにニューヨークに行ったんですが、その時に向こうのプロデューサーにアルバムを配ったんです。聴いてもらおうってね。そしたらね、「片岡、おまえニューヨークで仕事できるぞ」ってすぐに声がかかって。冗談ももいい加減にしろよって思ったんですが、話を聞けば、今こんな音楽をやってるバンドはない、と。似たような音楽をやってるバンドがある、って聞いて行ってみたら、なんか違う。つまり、似てるんだけど、本格的にシャンパンミュージックをやってるバンドが無い。

後に北野クラブでやってた頃は、300曲くらいをアレンジして演奏してました。もちろんスウィートミュージックです。東京にもこういう音楽をやってるバンドがいくつもあったんですが、どんどん無くなっていきました。最後はホテルニューオータニのボールルームで小原重徳さんがやってたんですね。それを聴きに行ったんですけど、そうしたら、もうすぐ無くなります、と。最後の日も聴きに行ったんですけど、ほんとうに良いバンドでした。

9ピースに弦が10人くらいいましたから、全部で20人くらいのバンドですね。米国では、その編成に加えてグランドピアノが2台。大がかりですが、素晴らしいんです。信じられないくらいお金をかけてたんでしょうね。
日本でスウィートミュージックが衰退していったのは、コストの問題と言うよりは、経営者が移り変わっていくうちに、儲かることを考えていくようになった、ということじゃないでしょうか。音楽にそこまでチカラを入れてやっていく必要がないと考えるようになったこともあると思います。

レコードが増えていったこともあると思うんですが、ホテルのプライドが無くなってきたということもあると思いますね。それと、ミュージシャンの問題もね。ミュージシャンはいつも自分を主張したがるから、ホテル側がシャンパンミュージックをやってくれと言っても、うまくいかないケースも多い。そういう意味では、ホテル側もミュージシャン側も、お互いの問題があってスウィートミュージックが必要とされなくなっていったということだと思います。

お客さんのこともあると思うんですね。昔は、ボールルームに来るときはビシっと正装して食事して、恋人とお酒を飲んで、ちょっと踊ってみようかなという人が多かった。正式なダンスじゃなくてカラダを揺らしている程度のダンスなんだけど、その雰囲気が必要とされてた。それが、だんだんとなくなっていきましたね。


第3部へ続きます


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