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さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
媚びないジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。

第91回
Fabulous Slide Hampton Quartet
Slide Hampton



ファビュラス・スライド・ハンプトン・カルテット
スライド・ハンプトン
撰者:吉田輝之



Fabulous Slide Hampton Quartet
Slide Hampton
【Amazon のディスク情報】

一曲目の出だしからとんでもない音塊が飛び出してくる。ワンホーンとは思えない分厚さでテーマを吹くハンプトンも凄いが、ペデルセンのベースが地鳴りをあげている。これはもうウッドベースによるファンクベースだ。そしてヨアヒム・キューンである。ここでのキューンは「唸る」という領域を遙かに超えて、首を絞められたニワトリのような奇声を上げながら演奏している。その声をオミットしてピアノだけを聴くと、確かにフリーキッシュだが、砕け散ったガラスの破片のように硬質で鋭く、そして繊細さも感じられる音だ。そしてフィリー・ジョー。本質的には必要な打撃、いや音しか叩かない抑制のきいたドラマーなのだがソロに限らずバックでも叩きまくっている。ともかく、ハンプトンにとって、このレコードは彼のキャリアの中でも「例外」といえる作品だろう。

1. In Case Of Emergency
2. Last Minute Blues
3. Chop Suey
4. Lament
5. Impossible Waltz

Slide Hampton (tb)
Joachim Kuhn (p)
Neils Henning Orsted Pedersen (b)
Philly Joe Jones (ds)
録音:1969.1.6



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フェリーで揺れる、ジャズの夜。
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こんにちは、今年はカラ梅雨かと思っていたら、大雨が降ってうろたえている吉田輝之です。
さて、ドシャ降りの雨のなか、今週の一枚は「FABULOUS SLIDE HANMPTON QURTET」です。



レコードという世界には、モンスター(THE MONSTER)と呼ばれる作品が存在する。聴いていいて圧倒され思わずのけぞり、一言も声を発せないスゴイとしかいいようないレコードだ。
例えば「A NIGHT IN TUNISIA/ART BLAKEY &THE JAZZ MESSENGERS」や「FOUR&MORE/MILES DAVIS」はまぎれもなくモンスターといえるレコードだ。この2枚は大のつく「名盤」だが、「名盤」といわれるレコードが即モンスターとはいえない。どんなに内容が素晴らしく、また歴史的な指標となり、一般的に高く評価されていてもそんなことは関係ない。星いくつの世界とは全く違う価値基準にある存在がモンスターだ。

そして一般的にはまったく知られず、その名を出すことが何か忌まわしいかのごとく密やかな口コミで広がっていったレコード、「LIVE/PHAROAH SANDERS」や「THE WOODEN GLASS RECORDED LIVE FEATURING BILL WOOTEN」などはモンスターと呼ぶに相応しい。

さらには、内容がどんなに破綻していようが、それがどうしたとばかりにエナジーが溢れ出していくレコード、「FABULOUS SLIDE HANMPTON QURTET」はまさにモンスターといえる作品だ。

この作品をモンスターたらしめるのは4人のジャズマンの出会いによる。
スライド・ハンプトン(tb)37歳、アメリカ出身
ヨアヒム・キューン(p)25歳、東ドイツ出身
ニールス・ヘニング・ペデルセン(b)23歳、デンマーク出身
フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)46歳、アメリカ出身

1969年の1月6日、パリの地で異邦人4人によってこのレコードは吹き込まれた。
それにしても、どうして、それも、よりによってこの4人がパリで出会ってしまったのだろうか。

作家の浅田次郎さんがエッセイで『思いがけぬ出会いを「邂逅」といい「遭遇」という。人の縁(えにし)はまずここから始まる。かねてより会いたかった人 あるいは好もしい人と会うことが「邂逅」であり、会いたくない人 あるいは好もしからぬ人とバッタリ出くわすことが「遭遇」であるといってよかろう』と書かれていたが、この4人の出合いは「邂逅」だったのか、それとも「遭遇」だったのか。

リーダーのスライド・ハンプトンは、1932年ペンシルバニア生まれだがインディアナポリスで育った左利きのトロンボーン奏者だ。12人兄弟で両親を含め、全員が楽器を演奏するという音楽一家に育ち、20歳の時にライオネル・ハンプトンと共演したのを始め、メイナード・ファーガーソンのビッグ・バンドなど多くのバンドで活躍した。

インディアナポリス出身のジャズマンというのはウエス・モンゴメリー、J.J.ジョンソンを筆頭にジャック・ウイルソン、フレディー・ハバードなどがいるが、共通するのはバカテクということである。ハンプトンのSLIDEという仇名はトロンボーン奏者にとって最高に栄誉なことだろう。

演奏技術が優れているだけでなく、ハンプトンは多くのビッグバンドでアレンジャーとしての才能を発揮し、60年代後半のモータウンにもかかわったが、1968年にウディー・ハーマンオーケストラの一員としたヨーロッパツアーに出かけたときにそのまま約10年間もヨーロッパに定住してしまう。すでアメリカではオーソドックスなジャスをやる場はないと思ったという。日本でいま一つ彼の名前が一般的でないのはヨーロッパ生活が長いためだろう。

このレコードは彼がヨーロッパに移った翌年の録音だ。

一曲目の出だしからとんでもない音塊が飛び出してくる。曲名通り「非常事態(IN CASE OF EMERGENCY)」発令だ。ワンホーンとは思えない分厚さでテーマを吹くハンプトンも凄いが、ペデルセンのベースが地鳴りをあげている。これが本当にペデルセンか・・・。10代の頃から天才少年としてヨーロッパのジャズシーンを駆け巡り、アメリカからヨーロッパに来た数々の米国ジャズマンのバックを務め、70年代後半からはオスカー・ピーターソンやケニー・ドリューのバックを務めたヴァーチュオーゾ然としたあのペデルセンからは想像もつかない暴れっぷりである。これはもうウッドベースによるファンクベースだ。

そしてヨアヒム・キューンである。何故この場にヨアヒム・キューンがいるのだ。1944年に東ドイツに生まれクラシックピアノ界ではライプチヒの神童と呼ばれにもかかわらず、兄ロルフとともにジャズにのめり込み、ドンチエリーと共演後、1966年西ドイツに亡命し、後に70年代の日本のジャズ喫茶でレコードがかかるとその場に居合わせて者全員を暗くさせたこの男は1967年にパリにいた。
ピーターソンやバド・パウエルなど唸り声をあげるピアニストは多いが、ここでのキューンは「唸る」という領域を遙かに超えて、首を絞められたニワトリのような奇声を上げながら演奏している。この時、キューンが白いブリーフ一丁の裸で片手に出刃包丁を振り回しながらピアノを弾いていていても誰も驚かない(あくまでもイメージです)。
しかし、その声をオミットしてピアノだけを聴くと、確かにフリーキッシュだが、砕け散ったガラスの破片のように硬質で鋭く、そして繊細さも感じられる音だ。

この曲、ハンプトンがエンディングテーマを吹いているとキューンが乱入してきて何とテーマをぶち壊してしまう。そこで間髪を入れずソロをとるのがフィリー・ジョーだ。
1967年から1969年までの時期フィリー・ジョーはロンドンの学校でドラムを教えていた。しかしユニオンの関係で演奏ができなかったとう。おそらくそのため、出稼ぎかなにかでパリにいたのだろう。しかし、この一貫してアメリカ東部の黒人ジャズ社会に身をおいたフィリー・ジョーがこの時パリにいなかったら生涯においてヨアヒム・キューンと戦う、いや共演することなどあり得ただろうか。

1969年当時、既にエルヴィン、トニー・ウィリアムスの時代でフィリー・ジョーはジャズの最前衛の存在ではない。しかも長年のアルコール、麻薬常習が既に身体を蝕んでいただろう。しかし、さすがは、我らがフィリー・ジョーだ。
もはや●●フェ●●ンにより無痛状態になったキューン(あくまでイメージです)に対して、「おまえがその気ならやってやる」とばかりに人中、鳩尾、金的、延髄へと肘・膝・正拳と恐るべき連打を打ち込んでいく(あくまでイメージです)。
フィリー・ジョーという男はワイルドで、叩きまくるというイメージがあるが、本質的には必要な打撃、いや音しか叩かない抑制のきいたドラマーなのだ。そのジョーがソロに限らずバックでもこれだけ叩きまくっているというのはそれだけ必然性があったということだ。

このレコード1曲目だけでなく、4曲目(CD)のLAMENTを除いて、全ての曲においてこの恐るべきテンションで4人が突っ走している。そしてLAMENT以外は全てハンプトンの曲だが(2曲目はもしかしてテテ・モントリュー?)、テーマが実にカッコいい。このレコードを聴いてもたらされる尋常ならざる昂揚感は演奏のテンションだけでなく彼の作曲能力の高さによるものだ。

一方、LAMENTはハンプトンが尊敬する同郷のJ.J.ジョンソンの美しいバラードだが4人がギリギリまで抑えた深みのある演奏をしている。この演奏を聴くと、このレコード、いわゆる喧嘩セッションではないことがわかる。

みんな好き勝手放題やっているようで、よく聴くとハンプトンはこの明日なき暴走をする白人二人の若者と、さらに輪にかけて傍若無人な黒人の不良中年をトロンボーンの音一つでコントロールしており、その実力は並々ならぬものであることがわかる。

それにしても、前年にいわゆる5月革命が起き、ドゴール政権が倒れるただでさえ騒然としたパリの地でとんでもない記録(レコード)が残されたものだ。

スライド・ハンプトンは結局1977年までヨーロッパに滞在し、ビッグバンドを組むなど現地のミュージシャンと演奏する他、デクスター・ゴードンとも行動をともにした。78年にアメリカに戻ってからは9人のトロンボーン奏者による驚異のユニット「ワールド・オブ・トロンボーン」を結成し、1998年にはディー・ディー・ブリッジウオーターのCOTTON TAILの編曲でグラミー賞を受賞している。また多くの大学で教鞭をとっていたらしい。アメリカジャズ界では我々の認識とは異なり、たいへんな大物、名士で尊敬されているという。YOU TUBEに彼の1990年以降の映像が多くアップされているが、確かにその存在感はすごい。

そのようなハンプトンにとって、このレコードは彼のキャリアの中でも「例外」といえる作品だろう。おそらくアメリカでは殆ど知られていないと思う。

いろいろ調べたが、どうもこの4人、他で共演したということはないようだ。しかし、このレコーディングでの出会いが、この4人にとって「邂逅」であったのか「遭遇」であったのか、結論は言うまでもない。

ジャスの黄金時代を経験したがアメリカに失望して渡欧したもう若くはない黒人二人と自由を求めてジャズにのめり込んだヨーロッパの神童二人の一期一会の出会いだった。


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