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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第67回

DO SOMETHING! 神戸からの祈り
板橋文夫
撰者:吉田輝之


【Amazon のCD情報】

こんにちは、前回の文章で、まだご在命のホレス・パーランさんを亡き者にしてしまった吉田輝之です。申し訳ございませんでした。

本当に最近は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」「サムサノナツハオロオロアルキ」「ミンナニデクノボートヨバレ」「ホメラレモセズ」を地でいっております。

さて、今週の一枚は自分に活を入れるため「DO SOMETHING 神戸からの祈り/板橋文夫トリオ」です。



10年前の5月のゴールデンウイークに神戸の実家に帰省し、学生時代からの友人である馬瀬君と喫茶店で会っていた。彼はその数年前に会社をやめ、学生時代にとった行政書士の資格を活かして法律相談所を始めており、あることを相談するために会っていたのだ。相談事が終わり共通の友人であるY君のことを話していると、Y君のお姉さんのご主人の会社(工務店)主催で、毎年5月最後の土曜日に、あるジャズピアノトリオを毎年呼んで演奏会を開いているという。その工務店は岩岡にあり、その敷地内に作った「木のホール」と呼ばれる会場での演奏会に、馬瀬君は昨年初めて行き今年も行く予定という。彼はジャズファンというわけではないが音楽好きであり、Y君からその話を聞いて行ったようだ。

僕は、ジャズ好きの企業経営者が道楽で会社の敷地にホールを建ててコンサートを開いたもので、バブル時代に大企業主催の大規模な野外ジャズコンサートのミニ版かと思った。しかし、馬瀬君の話によると、実際の主催者は会社やご主人というよりY君のお姉さんの方だという。この方、南輝子さんは短歌の世界でかなり有名な人らしく、また画家としても神戸で有数の画廊で個展を開く程とのことであった。馬瀬君によると雰囲気は芸術家肌といおうか、浮世ばなれしたおっとりした方という。
僕は、この話を聞き、なにか不思議な気がした。

企業(建設業)→バブル時代金余り→文化事業→ジャズフェス開催、
歌人兼画家の芸術家 →ジャズ好き→文化事業→ジャズフェス開催
という企業とジャズ、歌人とジャズというのはなんとなく結びつくのだが、おっとりした女性芸術家と荒くれ男達からなる建築業とはイメージがすっきりと結びつかないではないか。

僕はその主催者の方に興味がわき、「俺も行こうか」となったが、演奏者は誰でもよいと思っていた。僕は恥ずかしながら日本にジャズマン、特に最近のミュージシャンには疎く、どうせ知らない人と思っていたのだ。
しかし一応、出演者は誰かと馬瀬君に聞いてみると、「板橋文夫というピアニストのトリオだけど、吉田知っとうか?」と言うので「えぇ!えー!あの板橋文夫か」と驚いてしまった。

1970年代のジャズ界はいわばジャズピアノの時代だった。マッコイ・タイナーがジャズ界の中心にいたこともあるが、何よりもキース・ジャレットの「ケルンコンサート」が大ヒットしたことが大きい。さらにキースの同世代のハービー・ハンコック、チック・コリアの他、オスカー・ピーターソンやレイ・ブライアント、トミー・フラナガン、ケニー・ドリューといったベテラン勢の活躍も目覚ましかった。
日本でも山下洋輔トリオの活動が日本だけでなく世界で評判をとり、また山下と同世代の菊池雅章、佐藤允彦、本田竹広がジャズ界の中心にいた。彼らの活動は現在まで続くピアノブームの基になったといえる。

そういう動きの中で、1976年に「濤」でレコードデビューし、そして1982年にソロ作品「WATARASE渡良瀬」をリリースした板橋文夫は次世代のピアニストの代表的存在だった。それも現在の若手のようにレコード会社や事務所がバックにつき、純粋培養されお膳立てされた形でデビューしたのはなく、国立音楽大学出身ながら70年代初頭から渡辺貞夫や日野皓正、森山威男のグループで揉まれてのデビューであった。とにかく、アップテンポでもバラードの曲でも迫力かつ抒情性あふれる力強い音で空間を埋め尽くす演奏で、つけられたあだ名は「日本のマッコイ・タイナー!」。
「WATARASE」のレコードジャケット写真にある通り容貌も不敵な面構えに髭をたくわえ、太い腕からも実に精力的で迫力を感じさせた。

僕は板橋文夫の演奏は生では聴いたことがなかったが、以前「IN THE WORLD」の欄でご登場いただいた中原さんから、「東京にいた90年代に三度ピットインで板橋文夫を聴いたが、三回とも最初から最後まで全く手を抜かず、全速力で駆け抜けていく凄い演奏だった」と聞いたのが深く印象に残っていた。このため、「俺も行こうか」から「是非行きたい」となったのは当然の成行きであった。チケットは当然ピアなどではなく南工務店さん扱いで馬瀬君に予約を取ってもらった。
メンバーはドラムが小山彰太、ベースが井野信義。小山さんは1970代後半に神戸ジャズフェスティバルで山下洋輔トリオの演奏でみている。しかし井野さんは知らず、中原さんに後で聞くと「少なくとも日本で5本の指に入るベーシスト」ということで、いかに自分が日本のジャズ事情を知らないか反省しきりであった。

5月も終わろうかという土曜日、午後3時半頃、馬瀬君の住んでいる名谷で軽く食事をとり、そこから彼の車にのって会場のある岩岡まで向かった。
僕は神戸出身だが恥ずかしいくらい神戸の一部地域しか知らず、岩岡という所も知らなかった。馬瀬君から岩岡は神戸市と明石市の境目ぐらいとい聞き、何となくJRの須磨から明石まで快速で14分だからせいぜい車で30分程と思っていたらものすごく遠い。1時間車で走ってもまだ着かない。西区の北の方の山道を延々と走り、南工務店に着いたのはもう開演5時半の少し前であった。

向かいの農協の駐車場に車を止めさせてもらい、車を降りて辺りを見回すと田んぼ、田んぼ、田んぼが続いていた。新田の季節でウシガエルが鳴いている。こんな所でジャズの演奏会があるのか。
南工務店の敷地に入ると、音楽ホールらしきものはどこにもない。工務店の作った「木のホール」というからにはロッジ風のしゃれた建物を思いうかべ、それ風の建物を探したが、敷地内に会社の建物とよく工事現場にあるプレハブ3階建てくらいの資材置場とおぼしき建物があるだけだ。きょろきょろしながら馬瀬君の後をついていくと、彼は資材置場に向かっていった。よもやと思ったが、その「資材置場」が演奏会場の「木のホール」であった。

入口で予約を確認してチケット代(確か3千円)を払い、中に入ると、ヤマハのグランドピアノ、ドラムセット、ベースが置かれ、それを取り囲むように鉄パイプと板で天井まで4段程の席が組まれており、その他は資材置き場そのままであった。馬瀬君は、「どうだ、驚いただろう」という顔でこちらを見ている。ええ、大変驚きましたよ。彼は驚かせてやろうと、わざと「ホール」について僕に説明していなかったのだ。
もう人は8分目ぐらい入っており、おそるおそる階段(これもこのため作った簡易階段)をあがり3段目の端の方の席を確保した。さすがプロだけあって作りはしっかりしている。座席は板だが、薄い座布団を置いてくれているのがありがたい。

開演前にトイレに行っておこうと出ると外に簡易トイレが設置してある。トイレの脇に、40年程前我家にもあった大きな甕に水がはられ、トイレから出ると酌で水をすくって手を洗った。昼間は暑かったが、初夏らしくさわやかな夕風がふいている。ウシガエルの鳴き声はますます大きくなっている。改めて、ここでジャズコンサートがあるのかと思った。

席に戻って周りをみると200人程が入り満杯状態である。5歳位から80歳ぐらいまで老若男女入り混じっている。ジャズファンだから、板橋文夫だからといって聴きに来ている人は殆どいないように思えた。回り3キロ以内に住んでいる人全員に、家にいるままの服装で来てもらったという感じだ。その中でおそらく南さんの歌会のお仲間だろうか、女性の方10人位がスタッフとなって忙しく入場者の整理をしている。皆さん着飾った方ばかりで会場の中ではすごく目立った。

それにしても来ている人達をみて、正直言って不安になってきた。僕が昔レコード等で聞いた板橋文夫の演奏は抒情的で美しいが、激しく、はっきり言ってフリーキーでアヴァンギャルドな演奏もする。このようなジャズにあまり馴染みのないと思われる人達が聴いて理解できるだろうか。
最前列でピアノの真ん前に座っている5歳と7歳ぐらいの姉妹はヒキツケをおこさないだろうか。さらにその子らの祖母だろうか、その隣に座った70歳後半と思われるおばあさんの腰が抜けたらどうするのだ。

さらに、他の人たちも演奏を聴いて「何をやってんだ、こいつらは」と引いてしまい、しまいには「こんな演奏やめろ」と怒号渦巻き板橋文夫に座布団が投げつけられ、ゾロゾロとお客さんが帰り、観客が5人ぐらいしか残っていなかったらどうしようと、ドンドン不安な妄想が拡大していくのだ。

そうこうしているうちに開演時間となり3人が裏口(といっても表口も裏口もないのだが)から入ってきた。
3人を見て驚いた。僕の記憶になる板橋さん(ここからはもう勝手に親しげに「さん」付になります)の風貌は不敵でがっちりとした体つきだったのだが、少しヨタヨタと入ってきた板橋さんは眼鏡をかけ昔に比べ痩せており、髪型は蓬髪、Tシャツはよれよれというか何というか、よく見ると清潔な身なりなのだが、印象は○ー○・レ○の人というか自由人というか、そういう感じなのだ。また小山さんも山下洋輔トリオの頃の少年の気配が残るものの目を吊り上げ必死で演奏する姿が印象に残っていたが、目の前の小山さんは落ちついた眼差しで、坊主頭で作務衣(?)を着ているところから、お寺で働いている人といった風貌に変っていた。宇野さんは初めてお目にかかったがふくよかで柔和な感じのするベースマンの一モデルといった感じだ。

板橋さんの少し甲高い声(これもイメージと違う)で、無愛想だがどこか親しみのわく簡単な挨拶があり何気なく演奏が始まった。そして先ほどまでの妄想じみた杞憂は一挙に消えてしまった。
演奏が始まった瞬間、聴衆は引き込まれていった。スローな抒情的な演奏はもちろん激しい演奏でも観客全員が真剣かつ楽しみながら聴いているのが上の方の席から見ていてはっきりとわかる。

各自ソロは何小節という約束はなく、やりたいまでやる主義だ。演奏の転換やコーダーは互いに目を合わせほとんど阿吽の呼吸でしているようだ。
演奏が激(ゲキ)してくると板橋さんは拳骨で鍵盤を叩き、そして押さえつけたまま拳骨を横すべりさせる。それを見たピアノの前に座った女の子二人が口をあけ目を丸くさせて驚いているのが実におかしい。
小山さんのドラムセットはシンバルが2つぐらいしかないシンプルなものだが無限ともいうべきリズムを叩き出し、井野さんはアルコも交え縦横無尽に対応していく。直観で世界最高のピアノトリオと確信した。

1時間程演奏して中休みとなり、資材置き場、いや「木のホール」を出ると、入口前に冷水で冷やした缶ビールやチューハイなどのアルコールやジュース、お茶が一人2本の割合で振る舞われた(それも柿ピーセット付!)みんなにこやかで、しかも充実感が顔に表れている。

20分程経ち、2部(?)の演奏が始まった。1曲目は完全な即興演奏だ。シーンと静まりかえって3人を見つめている。そして3人の決め技が出るごとに、明らかにその音に感応した何匹もの犬の遠吠えが外から聞こえてくるではないか。

その曲が終わると、帽子を被り、なにかひらひらした服装を着た南輝子さんが短歌を詠み始める。バックで3人が即興で演奏を付けていく。南さんの声は細いが歌会で鍛えられたよく通る声だ。

後半何曲目かで、板橋さんはピアニカを吹きながら立ち上がり、会場の全員に手拍子を促した。これはジャズの演奏家としては極めて珍しい。
その時、板橋さんは手拍子に合わせ何と驚くことにドラムのステッックでピアノのボディを叩きだしたではないか。もちろん、そのピアノは板橋さんが持ち込んだ自前のものである。それはもう叩くという領域をはるかに超えて「しばく」としか言いようのないもので、その時会場にいた全員が無言で叫んでいた。「いくらなんでもそれはアカンやろ!」

僕はいままでピアノでは、山下洋輔のゲンコツ(これは板橋さんも多用)、ひじ打ち、猫じゃらし奏法(★)などおそるべき奏法を見てきた。しかし会場の手拍子を先導するためピアノをスティックで叩くのをみたのは初めてだ。しかし不思議なことに次第にこちらの方も
「もっと叩け!もっと叩け!!ピアノをイテマエ!シバイたれ!!」
という気持に段々なっていくではないか。おそるべし、板橋文夫。

★ねこじゃらし奏法
猫がねこじゃらしで遊ぶがごとく、手を軽く握り鍵盤を左右に払う演奏法。猫手奏法とも呼ばれる。山下洋輔の他、ドン・ピューレンがこの技の使い手である。

こういうふうに書くと何か面白いことばっかりしているようだが、明るいと同時に実に厳粛な雰囲気にホールはつつまれていた。
最後アンコールを終え、会場を出た誰もが言葉少なだが、晴れ晴れした、何か愉快だがとんでもないものを見てしまったとう表情をしていた。

僕は帰り際、入口で当時店頭では販売していなかった「WATARASE」と「SUN AND RISE」のCDを買った。

馬瀬君に三宮まで送ってもらい帰るはずだったが、どこかでコーヒーでも飲もうとなり、駐車できるところで、学生の時によくいった御影の「ダンケ」まで車で行くことになった。僕は20年以上行っていないが、馬瀬君によると、震災後阪急駅の近くに場所を移したらしい。
車中、買ってきたばかりの「WATARAE渡良瀬」を聴いた。15年ぶりぐらいだろうか。夜、山道を車で走りながら聴くWATARASEは不思議と車の走りとシンクロし、二人とも全く無言のまま聴き入った。板橋文夫の演奏は全くマッコイ・タイナーとは似ていないと思った。昔、いったい何を聴いていたのだろうか。
ダンケに着いたのはもう10時前で閉店前だったが、ママさんが快く迎えてくれ、名物のバターコーヒーを飲んで帰った。

結局、僕はこの年を入れてその後5年間、毎年5月に板橋文夫トリオを聴きにこの「木のホール」に通うこととなった。

今回紹介したレコードは、2007年5月26日の岩岡木のホールでの10年目最後のコンサートでの演奏を収めたものだ。このCDの副題「神戸からの祈り」をみれば、もとより南さん、そして板橋さんがどんな想いでこのコンサートが開かれてきたかわかる。
このレコードのジャケットの鮮烈な朱色のカボチャは南輝子さんが描いたものだ。ジャケットの裏にはホールの中でこの日来た人達全員を撮った写真が載っている。僕と馬瀬君も一番奥で小さく写っている。

通った5回の演奏はどれも感動したが、このレコードでの演奏、板橋さんが作曲した「祈り、神戸パートII」や「またあう日まで」「FOR YOU」、高田渡の「生活の柄」他全てが素晴らしい。ちなみに「(ジャンボ)ハバリガニ」は栃木県渡良瀬川にすむ幅のある大きな川蟹のことではないですよ、スワヒリ語で「こんにちは!元気ですか!!」の意味だ。
ゲストのクラリネット黒川紗恵子さんとファゴットの村田克則さんも実にいい。

僕は板橋文夫という人は、演奏家としてずば抜けていることは勿論、「WATARASE」や「GOOD BYE」「FOR YOU」等、ジャズ云々といったことを超えて心をわしづかみにする素晴らしい曲を書くひとだと思う。
僕が通った5回の演奏ではWATARASEは演奏されなかった。リクエストは非常に多かったと思う。しかし敢えて演奏しないという強い意思を感じた。もしかしたらこの岩岡という場では曲と風土が合わないとのことだったのかもしれない。

とにかく、板橋文夫トリオを5回聴いたというより、この木のホールという「場」に5回通い板橋文夫トリオの演奏に立ち会ったというのは、いろいろなことを考える基となった。
僕はもとより、日本のライブハウスやジャズフェスティバルの在り処、ジャズによる街おこしなど疑問をいただいていており、最初この演奏会を経験してその思いを一層強くしたのだが、今となってそのようなことはどうでもよいと思うようになった。

この木のホールでの演奏会は常に満員であったが、では主催者の南さんが儲けたとはどうしても考えられないのだ。南さんだけではなくそのスタッフも含め、金銭面だけでなく、時間的にも労力的にも膨大なコストがかかったのではないか。いや、しかしそれをコストという経済的な観念で語ってはいけない。サポートと云うのも違う。しいて言うと「捧げごと」だったと思うのだ。この「木のホール」での板橋文夫トリオの演奏を聴くことは、おそらく、そこにいた全員にとって特別なことであった。



1.インプロ:岩岡"木のホール"ラストコンサート2007.5.26
2.マーチング・フォワード〜ドゥ・サムシング
3. ROLLING STONE
4. 祈り〜神戸・パートII
5. ハバリガニ
6. FOR YOU
7. また会う日まで
8. 生活の柄

板橋文夫(P)
井野信義(B)
小山彰太(ds)
2007年録音



【蛇足たる補足1】
この岩岡でのコンサート、実はこの後も、南さん家のホームコンサートを含め何回か開かれているということを今回調べて知りました。是非また行こうと思っています。 この岩岡の木のホールに興味を持たれた方はGOOGLEの航空地図で探してみて下さい。

【蛇足たる補足2】
浅川マキさんが亡くなった時、板橋さんが作曲しマキさんが歌った「GOOD BYE」を聴き入りました。名曲にして名唱です。

【蛇足たる補足3】
本文のマクラにも書きましたが、ブッカー・アーヴィンの文章を書いた時、読んでいただいた何人もの方から「ホレス・パーランはまだ生きてますよ」と怒られました。よく考えたら75年より後に吹き込んだCDを私自身持っているではありませんか。一体誰と勘違いしたのでしょうか。
改めて、ホレス・パーランさん、このHPを読んでいただいている方、他の執筆者他このHP関係の皆様申し訳ありませんでした。


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