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jazz night

さんふらわあ JAZZ NIGHT プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
媚びないジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。

第61回
Bouncing with Bud
Bud Powell



バウンシング・ウィズ・バド
バド・パウエル
撰者:大橋 郁



Bouncing with Bud
Bud Powell
【Amazon のディスク情報】

有名なオリジナルのタイトル曲や敬愛するモンクの曲など、お得意のバップスタンダードが並ぶ。フレーズもかつてのバップイディオムが途切れなく溢れ出てくる。ミスタッチも多く完璧な内容とは言い難いが、良い人間関係や、好意的な観衆の励ましに支えられていい環境にいたのだろうと思わせる演奏。この時期ならではの好感の持てる内容であり、アメリカ時代のパウエルには作れなかったと思われるアルバムである。この時代のパウエルは、束の間の精神的安定を得ていたのではないだろうか。

1. Rifftide
2. Bouncing With Bud
3. Move
4. The Best Thing For You
5. Straight, No Chaser
6. I Remember Clifford
7. Hot House
8. 52nd Street Theme

1962年4月
クラブ「モンマルトル」ライブ
デンマーク、コペンハーゲン



Sunflower Jazz Night
フェリーで揺れる、ジャズの夜。
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アメリカの黒人ジャズメンは、一時的或いは永久に渡欧して活動する人が多い。
古くは1920年代のジョセフィン・ベイカーに始まり、バド・パウエル、ケニー・ドリュー、ニーナ・シモン、ケニー・クラーク、デクスター・ゴードン、マル・ウォルドロン、デューク・ジョーダンなどなど、ヨーロッパに拠点を移したジャズメンは、枚挙に暇がない。

理由は人それぞれだろう。アメリカの人種偏見の環境に絶望した人もいるだろうし、活動の場を求めてヨーロッパに旅立った人もいる。特に60年代前半は、フリージャズやモードジャズの台頭で、混迷していた時期でもあり、ハードバップのジャズメンからしてみれば、一種のジャズ不況という背景もあったのかもしれない。
ただ、アメリカ市場を中心とするジャズ音楽のミュージシャンにとって、中心を離れることは、業界から遠のき、マーケットから忘れ去られるかも知れない、というリスクを覚悟していたであることは想像に難くない。

「NHK人間講座 秋吉敏子~私のジャズ物語」(日本放送協会出版)によれば、
「アメリカでは黒人に対する偏見が強い為、ジャズメンは人間的にも音楽家としても尊敬されなかった。しかし、アメリカで下層階級の音楽とされていたジャズはヨーロッパに輸出された際、芸術として受け入れた為、中産階級/知識層の音楽になっていった。」という。
秋吉は更に、チャーリーパーカー夫人のドロシー・パーカーの言葉を引用して、
「アメリカではジャズミュージシャンはそのへんのゴミよりも低く待遇された。ヨーロッパに行ったら、ジャズ・ファンたちのものすごい歓迎と尊敬を受けて、チャーリーはびっくり。言葉に表せないほど喜び感謝していた。」という。

以前に触れたアメリカ黒人野球のニグロリーグも一時期、待遇のよい中南米諸国に選手たちが吸収されてしまい、衰退した時期がある。高給で引っ張られたのだ。それにそれらの国々では、彼らはアメリカ本土にいるときのように、人種差別に悩む必要がなかった。彼らはチームを捨てたのではなく、国を捨ててきたのだ。アメリカにいる限り「ニグロ」の印を押され、ニグロとしての行動を要求されるが、キューバでは一人の人間なのだ、とウィリーウェルズ投手は言ったそうだ。アメリカでは宿泊や食事ひとつするにも常に場所や立場を考慮しなければならなかったのに比べ、外国ではずっと楽だったのだろう。

バド・パウエルは、1940年代後半から50年代初頭にかけて音楽面の最盛期を迎えるが、50年代中期以降は麻薬やアルコールなどの中毒に苦しみ、精神障害(統合失調症)を負う。そして、1959年から1964年まで内妻のバターカップと息子のジョン(アルバム「シーン・チェンジズ」のジャケットに写っている子供)を連れてパリに移った。

今回のコラムで取り上げるアルバムは、その欧州滞在期間であるである1962年4月にデンマークのコペンハーゲンにあるクラブ「モンマルトル」で録音されたものだ。
パウエルが渡欧する以前の、アメリカ時代の代表的なレコーディングと云えば、高名なルーストセッション「バド・パウエルの芸術」(1947年)をはじめ、ヴァーヴレーベルの「ジャズ・ジャイアント」(1949〜50年)「ジーニアス・オブ・バド・パウエル」(1950〜51年)、ブルーノートからでている「アメイジング・バド・パウエルVol.1」(1951年)が挙げられる。
何れもテクニックといい構成といい、完璧な演奏だ。しかし、この「バウンシングウィズバド」では、アメリカ時代の鬼気迫る、緊張感に満ちた趣とは違う、リラックスした雰囲気が伝わってくる。

曲は、パウエルの有名なオリジナルのタイトル曲の他に、敬愛するモンクの曲が3曲含まれるなど、お得意のバップスタンダードが並ぶ。パウエルの弾くフレーズもかつてのバップイディオムが途切れなく溢れ出てくる。しかしミスタッチも多く、完璧な内容とは言い難い。指が比較的もつれずにスムーズに聞こえるのは、3曲目の「ムーブ」あたりだろうか。にも関わらず、きっと良い人間関係や、好意的な観衆の励ましに支えられていい環境にいたのだろうなあ、と思わせる演奏内容だ。 
この時期ならではの好感の持てる内容であり、アメリカ時代のパウエルには作れなかったと思われるアルバムである。この時代のパウエルは、束の間の精神的安定を得ていたのではないだろうか。

バド・パウエルはよくホーンライクなピアニストの元祖であるように云われる。即ち、アート・テイタムやテディ・ウィルソンなどのいわゆる伝統的なピアニスティックなピアニストでなく、パーカーやガレスピーらの管楽器のフレーズをピアノに移したスタイルであり、綺麗なタッチというよりは豪快なタッチである。しかし同時に、本アルバム中唯一のバラードである6曲目の「アイ・リメンバー・クリフォード」では、テイタム風でロマンチックなムードを感じさせる。(もちろん、たくさんのミスタッチには目をつむっての話だが。)
この頃、パウエルはジャズクラブ「モンマルトル」のハウスピアニスト的存在だった。一体感のある演奏からは、ベースのニールスペデルセン(当時弱冠16才)、やドラムスのウイリアムス・ショーフェといった現地のミュージシャンとは気心の知れた仲だったことを感じさせる。 

パウエルは21歳の時(1945年)、モンクが警官と喧嘩しているのを仲裁して頭をひどく殴り割られて以来、常にひどい頭痛に悩まされていたらしい。その結果、1945年(1度目:3か月間)、1947年(2度目:11か月)、1951年(3度目:6か月間)、1959年(4度目)と精神病院に入れられ、強い薬を飲まされたり、電気ショック療法を受けた。また内妻のバターカップは、「バドを静かにさせる為」といって、筋力を弱める作用もある強力な精神安定剤を多量に飲ませていた、と秋吉はいう。別の資料によると、当時の精神病院は、黒人患者には無闇矢鱈と強烈な精神安定剤を飲ませたり、わけのわからないような薬を注射したりしていたともいう。この頃のパウエルは「そううつ」の度合いがひどく、「うつ状」の時には全く口も聞けない状況だったらしい。

1964年4月、パリの「ブルーノート」で演奏していた秋吉を訪ねてきたパウエルは、「500ドルくれないか?」といったが、これは当時のヨーロッパ〜アメリカ間の飛行機代に値することから、きっとアメリカに戻りたかったのだろうと思うと秋吉は語っている。想像の域を出ないが、パウエルは自分の死期を何となく感じていて、故郷の土を再び踏みたかったのではないだろうか。

結局1964年8月にアメリカに戻ったパウエルは、クラブでの演奏に復帰する傍ら、1965年には2回だけホールでの公演をした。そのうちの一回であるカーネギーホールでの公演は悲惨な内容だったということだ。死ぬ直前は奇行も多かったらしい。1966年7月に栄養失調と肺結核を病因としてこの世を去る。42歳だった。

当コラムの35回で吉田さんも触れていた通り、秋吉はジャズをソーシャルミュージックであると定義した上で、こう語っている。「ジャズという音楽はまわりのプレイヤー達がお互いに刺激し合って瞬間的に創られる即興演奏に醍醐味があり、刺激が少なければ上達しにくい。まわりのプレイヤーたちが上手ければ上手いほど自分も上達する。ヨーロッパに移住してアメリカにいた時より上達したプレイヤーはほとんどいない。」
1960年代という、現在よりもはるかに人種間の壁の高かった時代に、女性の身で極東から海を渡って本場アメリカで大変な苦労をしたに違いない彼女の自負を感じさせる言葉である。

しかし、ヨーロッパに渡ったパウエルが、このように素晴らしいアルバムを遺したのも事実である。
この時期のパウエルの渡欧は、ある意味で、シーンの中心にいることを放棄することであり、アメリカジャズ界での立身出世の道を自ら降りることを意味していた。
つまり、NYではジャズシーンをけん引すべき、時代のトップランナーで居続けなければならないというプレッシャーと闘いながら、それをエネルギーに変えて弾いていたが、ヨーロッパでのパウエルにはその必要ななかった。アメリカで絶大な影響力を持つ天才ピアニストも、ここではトップランナーではなく、市井の一ピアノ弾きとして、愛する人たちを楽しませるエンターテイナーであればよかった。
つまり、アメリカ時代とヨーロッパ時代ではパウエルにとって、ピアノを弾くことの意味が違っていた。
結果を出す、というプレッシャーから初めて解放されて、ピアノを楽しんで弾いたのではないか。
指からこぼれ落ちるフレーズこそ、バップイディオムだが、フィーリングはあくまでスイングだ。

バド・パウエルという途方もなく大きい存在の中で、ヨーロッパでの活動記録はごく一部でしかないが、私はこのヨーロッパ時代のパウエルに巡り会うことが出来て本当に良かったと思う。
バド・パウエルの素晴らしさは、決してブルーノートやヴァーヴの時代だけではない。往年の演奏と比べて優劣をつけるべきものでもないと思う。このアルバムが聴き手にとってどんな意味を持つか。バド・パウエルの全盛期を過ぎて録音されたものである等ということとは全く無関係に素晴らしい内容であり、多くの人のこころを惹きつけるアルバムだ。

(参考文献)
「NHK人間講座 秋吉敏子~私のジャズ物語」(日本放送協会出版)





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