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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第45回

ライブ・アット・ジミーズ
ミシェル・ルグラン
撰者:大橋 郁


【Amazon のCD情報】

思い返してみると、このアルバムを好きになったのは、西宮北口のジャズ喫茶「コーナーポケット」が「DUO」と名乗っていた時代によくかかっていたからだと思う。 フィル・ウッズのアルトサックスと、ロン・カーターのベース、ジョージ・デイビスのギター、グラディ・テイトのドラムに支えられ、ミシェル・ルグランのピアノが軽快に歌う。

ミシェル・ルグランの強みは、先ず第一に単なるジャズプレイヤーであるだけでなく、映画音楽の大家でもあることだ。いわゆるジャズスタンダードを演奏するだけでも、ピアニストとして勝負できるだけの力量の持ち主なのだが、有名曲を沢山持っているので、誰もが知っている自作の有名映画音楽を素材にしたジャズアルバムを創ることが出来る。そして、第二の強みはフランス人であるということ。ルグランは「ジャズたるものこうあるべき」といった米国の黒人的価値観に縛られる必要がないのである。

話は逸れるが、昨今「和ジャズ」という言葉がよく使われる。アメリカ音楽であるジャズを日本人が演奏したものを指す造語であるが、日本人ジャズメンが意識して創り上げたジャンルではない。アメリカ人が作ったジャズという音楽を日本人が聞いて素直に感動した。そして、模倣しながら自分達なりにジャズをやった。しかし、もともと日本人が聞いて育った音楽や環境は、アメリカ人と違うので、どうしても日本人色が出る。それが「和ジャズ」だ。その意味では、ミシェル・ルグランのジャズも「仏ジャズ」ということになるのかも知れない。また、彼は非常に知性に富んだ天下の才人であり、このアルバムも随所に彼の知性を感じることが出来る。

フランスの映画音楽の作家として有名なミシェル・ルグランの名前がジャズ界においてもよく知られているのは、まずは「ルグランジャズ」というアルバムのおかげである。1958年6月、当時26歳だったフランスの映画音楽作家がマイルス/エバンス/コルトレーンら錚々たる面々を従えてオーケストラを指揮した。ミシェル・ルグランは1932年生まれというから、1933年生まれのマイルスやコルトレーンとは一つ違いということになる。

「ルグラン・ジャズ」が録音された当時、マイルスは既にプレスティッジマラソンセッション4部作(1956年)、ラウンドミッドナイト(1957年)を録音し、押しも押されぬ大スターだったし、マイルスの奇人ぶりも聞いていたので、フランスからやってきた映画音楽家の録音に付き合ってやる、といった感じのマイルスを指揮するのは、とても勇気のいることであったろう。ここでルグランは、ジャズアレンジャーとしての才能を発揮したが、自らプレーはしていない。ジャズピアニストとしても有名になったのは、1968年のヴァーヴ盤「シェリーズマンホール」でのライブ盤である。この時は、レイ・ブラウン(b)とシェリー・マン(ds)とのトリオで、スインギーで熱い演奏をしている。

このアルバム自体もちろん素晴らしい演奏なのだが、どことなくミシェル・ルグランが「アメリカ」という「アウェー」で、ジャズメンとして認められようとして、アメリカ人に受けるよう、アメリカ流儀に倣おうとして弾いている面がまだ残っていたような気がしないでもない。実際、アメリカ人でないミシェル・ルグランによるこのアルバムが発表された当時は、「アメリカが生んだ芸術様式がそうやすやすと外国人に出来るか」などと、風当りが強かったらしい。
ご当地ミュージシャン以外のアーティストによる演奏には批判がつきものである。

例えば、茨城県出身の上妻宏光氏が津軽三味線の大会で15歳で優勝したときは「津軽の人間でなければ本当の音は出せない」という冷ややかな声が聞こえてきたという。上妻氏は「吹雪を知らない人間に津軽を語るなという意見ももっともだが、他の土地で育った人間だからこそ生み出せるものがある」と語っている。沖縄県出身者でない人間が沖縄音楽を演奏したり、アメリカ南部出身でないCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)や、ストーンズも、ザ・バンドも南部を志向したアルバムを作っている。要は、その音楽家の姿勢なのである。南部出身でないCCRが南部への憧れを抱いて夢を膨らませたように、ルグランはジャズへの熱い想いを込めてピアノを弾いている。

さて、この「ライブ・アット・ジミーズ」は録音場所こそアメリカのニューヨークのジミーズというクラブなのだが、ルグランは「型にハマったジャズ」「出来上がったジャズのカタチ」に近づこうとするのでなく、自分なりのフランス人の自由なジャズを演奏しているのが、特徴である。そしてそれは決して「狙った」ものではなく、ルグランの内なるものから自然発生的に湧き出てきている。
「ブライアンズ・ソング」「ワッチ・ホワット・ハプンズ」など、美しい曲を徹頭徹尾、大切に美しく弾く。

アメリカのジャズメンの枠に縛られず、最もルグランらしさを発揮しているのはラストの「アイ・ウィル・ウェイト・フォー・ユー」だと思う。曲はご存じ1964年のフランスのミュージカル映画「シェルブールの雨傘」の主題曲である。主演女優のカトリーヌドヌーブが、兵役に行く恋人との別れのシーンで「何処へ行こうと、幾千の夏が過ぎようとも私は永遠にあなたを待っています。」とこのメロディーに乗せて歌うシーンは実に切なかった。結局は、お腹の子供共々引き受けてくれるという紳士との縁談を断りきれずに結婚をしてしまい、二人は別々の道を歩くことになるのだが。

ここでの演奏は、映画音楽風にロマンティックに始まり、ボサノバ風、ジャズ風、ワルツ風、タンゴ風、ボレロ風と様々なスタイルで楽しませた後、最後はサーカス風とでもいう大袈裟な2拍子でどんどん早巻きになって突然、大胆に終了する。こんな発想は、モダンジャズという枠組みの中にいるアメリカのミュージシャンからはなかなか出てこない。また、どっぷりアメリカ的なジャズジャーナリスムの中にいる批評家からも、高い評価は受けにくい。しかし、楽しくスリリングな構成と演奏である。普通、原曲を大胆にアレンジすると、原曲の持つニュアンスは消え去って演奏者の解釈だけが独り歩きするものだが、この曲はどのようにアレンジしても、あの映画の切ないシーンと切っても切れない不思議な曲だ。自分のつくった曲だから大事にするのは当然だが、何風に演奏しても本当に原曲の持つ切なさだけは変わらない。

ミシェル・ルグランの演奏には、ジャズに対する愛情の深さと、「曲への思い」が、幸福な同居をしている。このようなジャズユニットで演奏しても、「ジャズを演る」と考える前に、「曲を聞かせたい」という思いがあったのだと思う。その為であろう、ソロのどの部分を切り取って聞いても、直ちに「アイ・ウィル・ウェイト・フォー・ユー」であることが解る。

このアルバムで特筆すべきもう一点はフィル・ウッズのプレイだ。当コラム第25回で紹介した「フィル・ウッズ・シックス・ライブ・フロム・ショーボート」(1976年)と非常に近い雰囲気のプレイをしている。第25回のコラムの中で私は「崩れそうで崩れないリズムの中をウッズは危な気なくすいすいと泳いでいく」ようだと表現した。

ウッズが、渡欧してパリを拠点としていたのは、1968年(36歳)〜1972年(40歳)である。
「フロムショーボート」(1976年)と「アットジミーズ」(1973年)の共通点は、共にウッズの帰米後の演奏だということである。1973年のこのアルバムでフランス人ミシェル・ルグランに共演者として選ばれ、素晴らしい演奏をしているのは、4年間の渡欧中にヨーロピアンテイストの中にどっぷりと身に置いていたことと無関係ではないだろう。恐らくパリ滞在中も、深い親交があったのでは、と勝手に想像してしまう。1曲目の「ワッチ・ホワット・ハプンズ」(映画シェルブールの雨傘より)、3曲目の「ユー・マスト・ビリーブ・イン・スプリング」(映画ロシュフォールの恋人より)では、フィル・ウッズが大フィーチュアされ、素晴らしく歌いあげている。


こんな素晴らしい音楽家ミシェル・ルグランの愛聴盤をもう一枚、一緒に紹介しておきたい。

リナ・ホーンとミシェル・ルグラン(Lena Horne and Michel Legrand)である。

こちらは、アメリカの伝説的大歌手リナ・ホーンとの共演アルバムだ。
リチャード・ティー(org)
ポール・グリフィン(p)
ジョー・ベック(g)
コーネル・デュープリー(g)
グラディ・テイト(dr)
ラルフ・マクドナルド(perc)
ロン・カーター(b)
という超豪華メンバーによる1975年の録音。

リナ・ホーンは1917年ニューヨークブルックリン生まれ。両親は白人とインディアンを祖先とするアフリカ系アメリカ人であり、1930年代には、ハーレムのコットンクラブのダンサーとして出演していた。後に、ハリウッドMGM映画の初のアフリカ系アメリカ人女優となって、有名なミュージカル映画「ストーミーウェザー」に出演している。名前は聞いたことがあったが、活躍ぶりを見ていた訳ではないので、もちろん後追いで知ったことだが、アメリカの黒人芸能の相当ディープな歴史の中を生き抜いてきた人に違いない。後年、ダイアナ・ロスやマイケル・ジャクソンが出ていた「オズの魔法扱い」のリメイク映画「ウィズ」の最後のシーンに起用されていたのを記憶している。

このアルバムはリナが58歳の時のものだそうだが、ジャケットの写真を見て分る通り、年齢を感じさせない美人である。
(因みに彼女は、第二次大戦中の軍人慰問の際、人種によって座る場所が定められているショーへの出演を拒否した。自由平等の為に戦う公民権運動家でもあり、単なる美人歌手ではない。)

このアルバムでは、リナがルグランの名曲「シェルブールの雨傘」の「アイ・ウィル・ウェイト・フォー・ユー」を歌っている。こちらのバージョンでは、ロン・カーターの粘り気のある強力なベースのリズムに乗って、リナが力強く歌う。また、この曲ではリチャード・ティーのオルガンが全体を引き締めていて最高にキマッていて、カッコいい。全編を通してソウルフルなボーカルアルバムである。

リナ・ホーンは2010年に92歳で亡くなった。彼女の40年代〜50年代の(若い頃の)の録音は、あまり知らないが、このアルバムは、決してかつてとった杵柄(きねづか)ではなく、ガッツ溢れる歌いっぷりであり、70年代の音として素晴らしいアルバムに仕上がっている。
これら以外にもミシェル・ルグランのジャズアルバムは沢山出ているので、是非この知性あふれる良質のジャズが沢山の人に聞かれることを望みたい。


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