BANSHODO_Logo
gray line

Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

gray line
第79回

ケリー・ダンサーズ(第2回)
ジョニー・グリフィン
撰者:吉田輝之


【Amazon のディスク情報】


あけましておめでとうございます吉田輝之です。皆様、昨年の年末そして新年はどのように過ごされましたか。
私、昨年の11月に腎炎&膀胱炎となり倒れ、さらに12月には胃炎なになりました。腰・膝・心臓に加え六重苦の状態でした。特に膀胱炎では「出した」後に激痛が走り苦しみましたが、「出す」時にそれより遥かに激しい痛みがあるといわれる尿毒症で亡くなったブッカー・リトルを偲びながら過ごした年末年始でした。しかし、何というか「シモ」の病気というのは苦しいだけでなく実にせつないですね。

昨年は体調不良のため、この30年間で最もアルコールを飲まない年でした。それだけに各方面に「不義理」をしてしまいました。申し訳ありません。
しかし、よくよく考えてみれば私の「人的つながり」というのは9割方「酒がらみ」なのですね。うーん、「それでいいのか」と疑問に思いつつも「それでいいのだ」と結論づけてしまいますが、飲めないだけになかなか辛いです。

さて、今回は「THE KERRY DANCERS/JONNY GRIFFIN QUARTET」の2回目です。



前回書いたようにシーラから「ダメ」と言われたものの、こりずに僕は相変わらずDに通っていた。
僕は東京の前は奈良支店で営業をしていたが、その店で尊敬するA次長から「営業は断られたときから始まる。オンナも同じや。断られた時から始まるんや!」、さらには「ええか、テル(と呼ばれていました)。好きなオンナを落とすためやったら、男はどんな汚い手を使ってもな、神様は許してくれるんや!!」と教えられたのを真に受け、断られても何とも思わず、どんな「汚い手」を使おうかとイロイロ思案していたのだ。(ほら、前回書いた通り本当にイノセント=バカでしょう ┓(━ヘ━)┏ フゥゥ〜)v

その後数か月間、Dで僕は押したり引いたりして、「次回、店が終わった後に食事に行こう」と、ようやくシーラと約束を取り付けた。

約束の日に少し緊張してDに行くと結構遅い時間だったが、シーラはいなかった。シーラはどうしたのかとママに聞こうかと迷っていると、ママの方から「シーラは辞めたわ」と突然言われた。辞める理由は何も言わなかったらしい。

驚いていると、ママはシーラと約束をしていたことを知っていたのだろう。保母さんのような笑みを浮かべながらも「けど、辞めたのは吉田さんのせいでは絶対にないと思うわ。女(オンナ)って、どんな男(ヒト)からでもあれだけ熱心に誘われたら、食事ぐらいなら一度はいいかと思うものよ。だいだい、手もまだ握っていないんでしょう、気にすることは全然ないわ」と慰めているのか苛めているのかわからないように言った。

ただ、続けて「けど、吉田さんのためにはよかったのよ」と言われ、前から気になっていることを聞こうと思ったが、ママは他のお客さんの対応で席を離れていった。僕はガクッとなったが、「まぁ、留学しているJ大学に探しに行けば見つかるだろう」と思い直しそのまま帰った。(ほら、やはりバカでしょう。今なら完全にストーカーだよなぁ ┓(━ヘ━)┏ ハァ〜・・・)

と、まぁノウ天気な僕だったが、思わぬことにその直後に東京を離れることになった。そのため結果的に「どんな汚い手」も「ストーカー行為」もしなくてすんだのだ。1年後、東京に戻ってきたがDはもうなくなっていた。日が経ち冷静になれば淡い片想いであり、また当時それどころではない状態にあったため、いつしか店のDもシーラのことも忘れてしまった。それから10年後、勤めていた会社がつぶれ、僕は転職して、また東京を離れることとなった。

転職してから数年たったある日、以前このコラムでも書かせてもらった同僚の中原さんと音楽談義をしていると「HUSH A BYE(ハッシャ・バイ)」が話題となった。

「HUSH A BYE(ハッシャ・バイ)」という曲は子供の頃からいつのまにか聴きおぼえ知っていた曲だ。1970年代ぐらいまで洋楽、はよく日本語に訳されて歌われていたのだ。この曲はペギー葉山が歌っていたのを覚えている。ただ、「ハッシャ・バイ」はどちらかというとマイナーな存在で「ドレミの歌」のように誰でも知っているというわけではなく、僕も聴けば「ああ知っている」という程度だった。

むしろこの曲を意識するようになったのは、何と言ってもグリフィンのコペンハーゲンのカフェ・モンマルトルでのケニー・ドリュー等をバックにしたヨーロッパでのLIVE盤「THE MAN I LOVE」。そこで演奏された「ハッシャ・バイ」が70年代にジャズ喫茶でよくかかったからだ。そして日本でも森山威男他多くのミュージシャンが取り上げてスタンダード曲となった。僕がこの曲が初収録された「THE KELLY DANCERS」を聞いたのはそのLIVE盤を聴いた後だ。

そんなことを中原さんと話をしていると、中原さんから「この曲はもともと1927年のミュージカル映画THE JAZZ SINGERの主題歌だ」と言われ驚いた。僕はたまたま、その一月程前、レンタルビデオ店でこの映画のビデオを借りて観ていた。しかしこの映画で「ハッシャ・バイ」が流れた記憶がまるでなかったのだ。

この映画、1927年に作られた世界初のトーキー映画だが、僕はそのビデオを借りるまで観たことがなかった。主演はユダヤ人ながらミンストレス・ショウで顔を黒く塗り黒人に扮して唄い踊ることで名をなしたアル・ジョルソンだ。僕はアル・ジョルソンについては、中村とうようさんの本で、アメリカポピュラー音楽史上において極めて重要な存在であることを知り、また偉大なR&Bソウル歌手のジャッキー・ウイルソンが最も影響を受けた歌手であることから昔から興味を持っていたが彼の歌を聞いたことはなかった。ただ、この映画の主演であることは知っており、また「お楽しみはこれからだ!」のセリフであまりにも有名なこの映画を見たいと思っていたのだ。

ストーリーはこんな感じだ。
ニューヨークのユダヤ教会のラビ(司祭長)で聖歌手でもあるラビノウィッツの一人息子ジェイキー(アル・ジョルソン)がブロードウェイのスターを夢見て家出し、サンフランシスコでジャック・ロビンの名でジャズ歌手として成功する。ジェイキーはついに夢であったブロードウェイの舞台が立つことが決まったが、舞台の前日に父親が病気で倒れてしまう。舞台の初日はユダヤ教徒にとって最も重要な「大贖罪日(ヨム・キプール)」であり母親から父親の跡を継ぎ代役として先唱役を乞われ悩みぬくという親子間の葛藤を縦糸に、彼を助け恋仲になる女優メアリーとの異教徒間の結婚問題を横糸にして展開していく……という内容。

僕はこの映画を観ながら何故か記憶虫垂がムズムズしていたが、中原さんから「ハッシャ・バイ」がこの映画に使われたと聞いて「本当かな」と疑問に思う一方、突然、昔Dでハッシャ・バイを眠りながら聞いたことを思い出したのだ。
実は中原さんもこの映画は観たことがないとのことだったが、ジャズ関係の知識についてはウィキペディアよりも詳しい中原さんがいうだけに、この映画で「ハッシャ・バイ」が流れるかを確認するため、もう一度このビデオを借りにいったが、残念なことに当時ちょうどレンタルビデオ店ではビデオからDVDに入れ替わる時でこのビデオは処分されていた。

今回そのことについてもう一度調べてみたがこの1927年の映画で使われたかは今一つ不明だ。しかし、この映画、カサブランカの監督であるマイケル・カーチスが1953年にダニー・トーマス主演でリメークしており、その映画でメアリー役をやったペギー・リーが唄ったのははっきりしている。この1953年度版はかなりヒットしたらしく、日本で「ハッシャ・バイ」が日本語で歌われたのは、この1953年版の影響だろう。

「ハッシャ・バイ」は元々ユダヤ民謡で、フランスの作曲家A・トーマスが歌劇「イレモン」(1851年)で取り上げたとされる、さらにアメリカの作曲家サミー・フェインが新たに手を加え、ジェリー・シーレンが詞を付けた作品である。
歌詞の内容は子守唄だ。ハシャ・バイという意味はHUSHは「黙る」ということだから「シーッ、静かに」ということらしい。これも随分後になって知った。今思えば、Dでうたた寝していた僕が起きた後にシーラがママに「HUSH A BYE」と言ったのは、単に曲名を言ったのではなく「起こしたらだめ」という意味もあったのだろう。

この曲、実はややこしいことに別の「HUSH A BYE」があるのだ。古くから南部の黒人達によって歌われてきた子守唄で、ルーツはマザー・グースに関連するアイルランンドのフォークソングだという。50年代のフォークリバイバル後、オデッタやジョーン・バエズ他多くのシンガーが歌っている。僕も最初、バエズの歌で聞いたときに「何か違うな」と思いつつも同じ曲だと思っていた。

しかし、根拠はないが、この二つの「HUSH A BYE」は何らかのつながりがあると僕には思えてならない。

僕は10年以上前のことで全く忘れていたことを思い出し、妙に切なくなった。



【蛇足たる補足】
全然終わりません。もともと思い出話からハッシャ・バイにふれて簡単に終わろうと思っていたのが、完全に泥沼に入ってしまいました。
書いていくうちに、もともとミンストレスショウとは何だったのだろうと調べだす内に、そもそもJAZZとは何かということまで疑問が膨れ、さらには前回の松井さんの記事でスリー・ブラインドマイスの話でマザーグースの話が出て「もう一つのHUSH A BYE」について調べだしたら収集がつかなくなってきました。
前のコラムから二ヶ月がたち、しかも酒を飲まないのですごく時間があったのに全然終わりません。
だいたい肝心な「THE KELLY DANCERS」にはあいかわらず殆どふれていないし・・・。

次回、当テーマは少し飛ばして別テーマでいくかもしれません。
申し訳ありません。


gray line Copyright 2010- Banshodo, Written by Iku Ohashi, Sanshiro Matsui, Teruyuki Yoshida, Noriiko Hirata, All Rights Reserved.