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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第75回

ケリー・ダンサーズ(第1回)
ジョニー・グリフィン
撰者:吉田輝之


【Amazon のディスク情報】

こんにちは、腰・膝・心臓の悪化で普段は外に飲みにいかないのですが、先日法事の席で少し飲み、帰りがけにこけてしまった吉田輝之です。子供の頃、六甲山を縦走した身にとってなさけないかぎりです。

さて、今回は「THE KERRY DANCERS/JONNY GRIFFIN QUARTET」【第一回目】です。



思い出してみればまるで昨日のようだが、もう四半世紀も前のことだ。
東京で働きだして4年が経った頃、今ではバブルの時代といわれるが、当時、そんな言葉は誰も知らなかった。年号はまだ昭和で、国鉄がJRになったばかりで、僕はまだ二十歳代だった。イノセント(INNOCENT)という英語は「純真・無垢」といった意味より「無知なるが故のバカ」というニュアンスがあるらしいが、そういう意味で間違いなく僕はイノセントだった。

当時、渋谷に週2回ほど通う店ができた。会社は日本橋の近くで会社帰りに寄るのは少し不便だったが、高田の馬場に住んでいたので帰るのは楽だった。 その店は渋谷の駅の近くにあった。どのあたりかはもう憶えていない。その店は、昼はジャズ喫茶で午後6時を過ぎるとバーになった。最初は休日にジャズ喫茶と思い行ったと思う。行って夜はバーになると知った。当時ジャズ喫茶が廃れる一方でジャズバーが増えていたが、その端境期でこの店は昼夜で喫茶店とバーを併用していたのだろう。カウンターが8席ほど、4人がけのテーブルが二つほどの小さな店だったが、夜行くとたいていは満員だった。マスターもいたはずだが記憶にはない。接客はママがしていた。小柄で、ショートヘアーで眼鏡をかけ、50過ぎの保母さんのような風貌のママだった。

その店の名前を仮にDとしておこう。Dに通いだしたのはアルバイトの女の子目当てだった。歳は当時21歳だったと思う。灰色の瞳と灰色の長い髪の外国人の子だった。背は165cm位だろうか、顔が小さく、また向こうの子にしては線が細かったのでずっと小柄に見えた。化粧気はないが、きれいな子だった。服装はジーンズにTシャツなど普段着でアルバイトをしていた。確かJ大学に留学していたはずだ。
名前は仮にシーラとしておこう。日本語はよく知っていたが、主語が省略されると誰のことかよくわからないようで、こちらは拙い英語で補足して話をした。日本語と英語ごちゃまぜでズケズケ話す日本人が珍しいのか、彼女は手が空くとこちらに来て話をした。

七月のある日、そろそろ彼女を誘いだそうと思いDに行った。行くと珍しく客は他におらず、彼女もまだ来ていなかった。席についてハイボールをママに頼んだ。ハイボールを持ってきたママと世間話をしていると、ママからシーラは休みだと告げられた。こちらの気持ちを見透かされたようで冷静を装うとしたが、やはりがっくりきている僕にママは言った。

「吉田さん、彼女はダメよ。」
やはり見透かされていたかと思い、正直にママに聞いた。
「オレ、彼女に好かれていないのかな」
ママは少し笑って否定も肯定もしなかった。
「他にカレシがいるのかな」
ママは、知らないと短く答えた。
「やはり日本人じゃダメか」
ママは、少し間をおいて意を決したように僕にいった。
「だめなのはねぇ、吉田さん。それは彼女がユダヤ人だからよ」


まだ外国人の女の子と付き合うのが珍しかった当時、一般的な意味で外国人は日本人と付き合わないのかなと思い聞いたが、思いもよらぬママの答えに何も言えなかった。その時、急にお客さんが何組も入ってきて忙しくなったママとはその日もう話はできなかった。

その後、1週間ほど、もやもやと落ち着かない気持ちで過ごした。僕はユダヤ人についてはナチスによるホロコースに代表される迫害の歴史の他には、洋楽を聴いてきたためか日本では白人とされるミュージシャンの多くがユダヤ人であることぐらいしか知らなかった。
僕は「あの子はユダヤ人だからダメだ」とママが言った理由はわからあなかったが、ママの言葉には、あの子にアプローチしても脈がないというレベルを超えた「警告」を強く感じた。

次の週末に、会社での飲み会のあとDに行った。店に入るとママは少し笑って、彼女は少し遅れて来ると告げた。
会社での飲み会ではあまり飲まないようにしていたが、やはり酔っていたのだろう。いつのまにかうっすら眠ってしまった。
レコードの音だけが聞こえる。サックスのワンホーンの演奏だ。ああ、この曲は知っている、しかし曲名がどうしても思い出せない。その曲がかかっている間は随分長く感じられたが実際は数分だったと思う。


曲が終わり、後ろから肩をたたかれて顔を上げると、シーラの灰色の瞳がこちらを見ていた。彼女は笑って、後ろから僕の肩をたたいたママに向かい「Hush A Bye!」と言った。あぁ、この曲はグリフィンの「ハッシャバイ」だ。
彼女はジャズについて殆ど知らなかったが、この曲は知っていて曲名を告げたのだろう。

少し眠ってすっきりした僕は彼女と他愛のない話をしたと思う。僕はママの言葉は奇妙に頭にこびり付いていたが、とりあえず食事に誘おうと思っていた。しかし、話のはずみで、思わず「俺じゃダメか」と聞いてしまった。彼女はその言葉の意味をじっくり考えた末にゆっくりと顔を横に振った。数秒かかり、それが西洋人の否定のしぐさ「ダメだ」という意味であることに気付いた。僕はとりあえず今日は帰ろうと思い「また来るよ」と言って店を出た。



【蛇足たる補足1】
すいません。前回のコラムで次はジャック・ウィルソンの初リーダ作について書くといったのが、どうしても調べたいことがあり、GRIFFINの「THE KERRY DANCERS」に変更しました。しかし読んでいただいた通り、昔の思い出話を書いているだけ、それも中途半端に終わっており、全然本題に入っておりません。正直ここから中々進まないのです。

僕は10代の頃から黒人音楽に夢中になる一方でアメリカポピュラーミュージックにおけるユダヤ人の存在に興味を持っていました。しかし、20台の頃はまだ「ユダヤ人は白人である」と思い込んでいました。しかし、今回のコラムに書いた経験から、生物学上の分類とは関係なく、「ユダヤ人は白人ではない」そしてアメリカだけではなく世界的にみてユダヤ人というのは極めて「特殊な存在」であることに気付きました。
しかし、このことを今まで日本のロックファンにもジャズファンに話してもなかなか理解してはくれないのです。
例えばビル・エバンスは白人ジャズビアニストの代表のように言われ、常に黒人ジャズピアニストとの比較によって語られますが、それは違うと以前から思っていました。またギル・エバンスも白人ジャズアレンジャーとして語られてきましたが、それも違うと思ってきました。何故、白人嫌いのマイルスがビル・エバンスをグループに向かい入れ、またギルエバンスと組んだがか?それは彼らの才能が突出していたこと以上にユダヤ人のジャズマンだったからだと思っています。
とてもこのことを書ききる力量は僕にはありませんが、このことを次回少し書きたいと思っています。

【蛇足たる補足2】
グリフィンの「THE KERRY DANCERS」は傑作です。長いことその事に気づきませんでした。これも次回書きますが、10年程前に中原さんから「グリフィンの真価はブローではない。本当のグリフィンのファンはTHE LITTLE GIANTが嫌いだ」と教えられ「そんなアホな」と思っていましたが、この盤、特にB面を聞きこむとその意見も理解できます。彼は「作品」としては決してコルトレーンやロリンズのような歴史的名盤を残しませんでしたが、底知れぬ魅力を持つテナーマンだと思うようになりました。けど、やはりハードブローするグリフィン、そして「THE LITTLE GIANT」は大好きです。


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