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篠山紀信展 写真力
THE PEOPLE by KISHIN

2014年4月5日(土)〜5月18日(日)
会期中無休
午前11時〜午後7時
入館は6時30分まで
会場:グランフロント大阪
北館ナレッジキャピタルB1F、イベントラボ
公式サイト
www.kishin-osaka.jp




会場エントランス
グランフロント大阪
北館ナレッジキャピタルB1F




ハレの日
篠山紀信展 写真力<THE PEOPLE by KISHIN>で体験できる、写真のチカラ。


2014年4月5日から大阪のグランフロントで篠山紀信写真展が開催されている。篠山さんの写真展が大阪で開催されるのは初めてということだ。
え、そうだったか、と思う反面、よく考えると大きな会場でひとりの写真家だけに焦点を当てた展覧会は、そもそも少ない。
写真は誰にでも撮れるという錯覚が蔓延しているからかもしれないし、絵画作品より写真作品のほうが大衆性が高いので、そういう意味で写真を美術作品と捉える人が少ないからかもしれない。

森山大道さんの写真展が大阪の国立国際美術館で開催された2012年以来、大きな写真展は開催されていないのではないか。少なくとも、日本人写真家の大規模な個展は記憶に無い。
そんなことからも、篠山さんの大規模な個展が大阪で開催されるときいて、僕はとても嬉しかったし、楽しみでもあった。

4月4日、オープニングを翌日に控えて内覧会があり、意気揚々と僕は出かけていったのだ。そこには、多くのスタッフに囲まれた篠山紀信さんがいた。なかなか珍しい内覧会だったと思う。
開場は、5つのテーマによって区分された構成で、まるで写真集の編集手法がそのまま展覧会に移植されたような雰囲気で新鮮だった。美術館で開催される展覧会では、こういう構成は少ない。

5つのテーマとは、こんな内容だ。
1)各界の有名人(すでに亡くなっている人々)
2)各界の有名人(今日の時点で存命の人々)
3)各界の有名人が演じる虚構世界(舞台や遊園地など)
4)素肌をさらした写真(有名人のヌードを中心に)
5)東日本大震災で被災したひとびと(一般の市民)

その5つのテーマに沿って作品が展示されていて、それらの写真作品について篠山さん本人が解説してくれる。そうやって5つのコーナーをすべて回った後、最後にその場で質疑応答が始まった。
この形式はかなり珍しい。そしておもしろい。篠山さんがこういう内覧会を企画したのだろうか。

写真作品はどれもこれも巨大サイズに引き伸ばされ、まるで写真の胎内にいるかのような臨場感ある写真展になっている。そして、その凄まじい臨場感、存在感を僕は感じながら、何とも言いようのない違和感に包まれていた。
なんだろう、この圧迫感は。生き物の胎内に入ってしまったかのような、この生々しさ、息苦しさはなんだろう、と。

僕は篠山さんやスタッフのみなさん、そして僕を含めて来場している各社の記者さんにまじって会場を浮遊しながら、最後にたどり着いた5番目のテーマ、東日本大震災で被災した人々を写したコーナーで、ようやく気がついた。

上に書いた(1)から(5)を今一度確認してほしい。
(1)から(3)は、各界の有名人。(4)はヌード。(5)は大災害の被害者。いずれも、非日常の人々であり、その非日常そのものを写真に撮った作品だ。

僕は、『ハレとケ』というコトバを思い浮かべた。『ハレとケ』は、柳田國男さんが発案した概念らしいが、つまり、『ハレ』とは非日常、『ケ』とは日常、世の中はその2原論で説明出来るという概念だ。
ハレとは文字通り『晴れ』である。晴れ舞台などとよくいうあれだ。『ケ』とは俗世間の日常。

篠山さんの作品は、今回の『写真力』という展覧会で選ばれた作品のみならず、おそらくほとんどが同じコンセプトで撮られている。
それこそ、『ハレ』の写真ということだ。

芸能人、歌手、役者、スポーツ選手、俳優、そういった世間に知られる有名人は、みな非日常の世界の人々だ。僕たち一般社会の人間から見ると、『あっちの世界の人』である。
もちろん、ヌードもそうだ。ヌードこそ、誰もが持つ非日常の具現化だろう。
そして、東日本大震災で被災したひとびと。これもまた、非日常なのだ。有名人が写っているわけではないが、ここで撮影された人々はみな、極端な非日常を生きている。

僕はそれを、篠山さんに質問した。すると、篠山さんは実にあっけらかんと、そして率直に答えてくれた。

写真は嘘なんだ、と。実際の風景や人物を切り取る、ということ自体がまず嘘。切り取るなんて事は本当は出来ないのに、写真はそれが出来る。切り取ることで嘘になる。そして、その嘘をさらに高め、嘘に嘘を塗り足していくと、不思議なことに真実が見えてくる。そう話してくれた。
たとえば吉永小百合さんの写真を撮るとする。その時、吉永さんが控え室で歯磨きしている光景だとか、そういうのを撮るのはまったくおもしろいと思わない、と言う。吉永さんは吉永小百合ではなくてはならないんだ、と。俳優である吉永小百合さんが俳優である状態を撮る、みんなが思う吉永小百合を撮ってこそ、そこに吉永小百合を通して人間の真実が見えてくる。
自分はそういう写真をおもしろいと思うし、そういう写真を撮ってきた。もちろん、毎回毎回良い写真が撮れるわけじゃないけど、毎回良い写真を撮ろうと思ってるし、時々そういう写真が撮れる。それは、写真の神様が撮らせてくれるんだ、と。

僕はとても興味深く話を聞いた。

ハレとケ、と言われると、確かにハレの写真ばかりだね、と篠山さん。でも、例えば日常の中にある悲しみとかを撮ったって、ほら悲しいだろ、と見せつけているようにも思えるし、そいうような写真は、自分は嘘くさいと思う、と言う。

その『嘘』とは、きっと『偽善的』というような意味なんだろうと僕は感じた。篠山さんは広告写真家としてデビューし、虚構の世界に惹かれていった若い時代から、今に至るまで『作られた虚構の世界、嘘の世界』に、真剣に生きる人間の魂を見たのかもしれない。演じることや、日常性から離れた存在であることの困難さ、そこに人間にしか出来ない生命力を感じたのかもしれない。
演じることが出来るのは、あらゆる生き物の中で人間だけなのだ。非日常を辛いと思えるのも、喜びと感じられるのも、人間だけだ。

そういう意味では、篠山紀信という写真家は、ほんとうに希な芸術家だと思う。海外の写真家では、アニー・リーボビッツさんが篠山さんに近い存在かもしれない。

篠山さんの写真集で『晴れた日』という名作があるが、もしかしたら、篠山さんはずっと前から『自分はハレを撮る写真家なんだ』と自覚していたのかもしれない。

日常性に潜む狂気を絶妙な視点で撮る荒木経惟さんや森山大道さんは、確かに篠山さんよりもアーティスティックな写真家に思えるが、実は篠山紀信さんこそ、戯作者として人間の魂を撮ることが出来る希有な写真家なのだ。



平田憲彦(万象堂)

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