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ロバート・ジョンソン ブルース歌詞集

定価:¥2,520円(本体¥2,400+税)
B6判、上製本、176頁
ISBN4-902324-01-6 C0073


ロバート・ジョンソン ブルース歌詞集



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ロバート・ジョンソン ブルース歌詞集
編集後記


平田憲彦




万象堂の書物としてロバート・ジョンソンの歌詞集を出すというのは、実は、いささかの迷いがあった。それは、CDに歌詞対訳が付いているのに、あえて書物として歌詞集を出す必要があるのかということ、そして、歌詞がその音楽から切り離され単独で書物になるということへの違和感からだった。

音楽というものは、聴くことがすべてなのである。ライブパフォーマンスを見に行くことも、演奏を聴きに行っているから意味があるのであり、見るだけで聴けなくてもいい、というのは、それは音楽体験ではないのだ。同様に、歌詞もしかりだ。歌詞だけ読んだのでは音楽を聴いたことにはならない。歌詞がとりわけ有名なボブ・ディランであったとしても同じだ。彼の歌詞集も日本語版として出ているが、あの書物を読んだだけではディランの音楽を聴いたことにはならない。やはり、聴かなくてはならないのである。

そう考えていたのであるが、CD付属の歌詞対訳を見返していると、なんというか、そこにある距離感を覚えたのである。
それは、まったく上記の考えの逆の見方もまた、真実だということからくる、『わからない、ということの距離感』であった。
つまり、歌は聴くだけでは聴いたことにならないのではないか、ということだ。何を歌っているのかさっぱりわからなくても、それは、聴いた、ということになるのだろうか…。

日本の歌で、『酒と泪と男と女』という名曲がある。そのすばらしさは、決してメロディやサウンドの良さにだけ負っているのではない。歌詞も抜群に良いのである。歌詞が分かることで、曲の良さがさらに増幅していく。

距離感は、ココだと感じたのだ。

“歌詞が分かる”ということ。

“歌詞の意味がわかる”のではない。意味、というのであれば、単語の意味さえ知っていれば十分だ。しかし、“歌詞が分かる”というのは、そういう文法的な問題ではないのだ。感覚的、感情的な問題、といったらいいだろうか。

例えば、『酒と泪と男と女』に出てくるフレーズ、『どうしようもない哀しさ』。これは文法的に意味がわかったところで歌詞が分かるというものではない。『どうしようもない哀しさ』という歌詞を聴いて、分かる人は分かるし、分からない人は分からないのである。
『酒と泪と男と女』を聴いて感動するのは、メロディと歌詞が絶妙にマッチしていて、またそれが共に素晴らしく、歌い手の歌唱もまた、とんでもなく素晴らしいからなのだ。

CD付属の歌詞対訳に私が感じた“距離感”とは、それだったのである。
ロバート・ジョンソンのCDに付属されている歌詞対訳は、あくまでも英語の原詞を掲載するに際しての補助として、文法的意味に軸足を於いて日本語訳を掲載していると感じたのである。断っておくが、それは別に間違いでも問題でもない。そういう目的で翻訳され、掲載されていても、なんらかまわないことだとは思う。
だから、対訳の中に『どうしようもない哀しさ』というような、日本語でしか表現できないような訳文が無いのもわかろうというものだ。文法的正確さに軸足をおくと、“どうしようもない”というような曖昧な日本語は当てはめにくくなるだろう。

ロバート・ジョンソンは、感情たっぷりに歌っている。曲によっては、狂暴であったり、切なかったり、本当に表現豊かだ。その歌の意味を、私は知りたいと思った。それを日本語にするとどうなんだろうと思ったのである。そもそもロバート・ジョンソンが歌っている内容を、日本語という文脈でわかるようにしたら、どうなるのだろうか、と。
そういう見方でロバート・ジョンソンの日本語訳を探してみたが、これは見つけることが出来なかった。
今回出版した日本語訳の歌詞集は、まさにそれに近いものということができる。ロバート・ジョンソンの歌に少しでも近づき、そのブルースを感じるための手段のひとつとなるものなのだ。

自分が欲しくて、現在無いものは、作る。これが私の本を作る動機である。そうして、自然と出版計画に入ったのである。それが、2003年の11月くらいだった。
鳥海さんがロバートの歌詞を訳していたのは、私にとっては幸運だったといえる。それで出版の青写真が見えたといってもいいからだ。もちろん、他の翻訳家の方に訳してもらうことも考えた。しかし、鳥海さんの訳は、ブルースを弾き、歌うという側の視点に立った訳で、それはまれな例だと思ったのである。歌詞の訳は、それを歌おうという意志があった方が、より良い訳になるはずだからだ。
鳥海さんの訳は、その時半分くらい出来ていた。しかし、どれも推敲不足だった。そもそも自分のために訳していたのだからしょうがないが、その訳文を出版しようということになり、本格的に仕上げていくことにしたわけである。
翻訳には完璧と言うことはあり得ない。どのような訳でも、時代と共に変遷するし、それ以前に、訳した本人の感情や感覚も変化してゆく。そう考えても、私には、2004年の現在、日本において、当時20代半ばだったロバートの歌を日本語でわかるようにするという主旨からみて、鳥海さんの訳からはロバートの声が聞こえてくると感じたのだ。


やがて、編集も大詰めを迎えたのが、2004年の6月から7月。脱稿も目前だった。
揃いつつある原稿を前に、どのような順序で歌詞を並べていくかを考えたとき、まず読みやすさ、そしてロバート・ジョンソンの世界をダイナミックに体験できる構成だろうと思った。その解決策として、ロバートの創作上の着眼点を分類し、その分類を大きな幹として構成するのがいいだろうと考えたわけである。

ロバートにみられるのは、きわめて個人的な4つの視点だ。
『恋愛』、『セックス』、『仕事』、『運命』。この4つにきちんと入らない歌もあるが、大きく分けて4つに分類した。

ロバートにとっては『恋愛』と『セックス』は別物である。『恋愛』に分類される歌に見られる精神は、おそらく母への憧憬が根源にある女性に対する依存と、それを受け入れてくれることによる自己確認である。そういった精神活動は、たいていの人には幼い頃に達成され、それを元に人間形成していくのだが、ロバートの場合そこが決定的に欠落している。恋愛の歌にセックスが介在していないのは、そういうことも一因であると推測できる。女性に邪悪さをみる歌、あるいは依存と受容による自己確認を希求する歌にセックスの視点が入り込んでいないのは、そういう意味でもロバートにとっては自然なことなのかもしれない。

『仕事』は、いわゆる“ライフワーク”という意味での仕事ではなく、むしろ、“ライスワーク”とでも呼べる、衣食住に必要なお金目的の労働だ。ここも、人としての精神活動では無視できない大きな問題であり、それはロバートにとってもやはり同様だ。

そして、『運命』。ロバートは常に自分を対象化して客観的に捉えていたことがよくわかる。しかし、対象化できないのが、母親であり、会ったことすらない父親である。無償の愛情とも呼べる精神的な包容感覚を成熟させないまま成長してしまったロバートにとって、確立できなかった両親との精神交流は自己の不確実性となって深い内省と化し、歌という表現に昇華している。それが顕著に見られるのが、この『運命』に分類される作品たちだ。実感できない生は、往々にして死や暗黒への関心に転倒する。死や暴力を感じさせる歌が多いのも、この『運命』に分類される作品に見られる特徴だ。

そうやって分類した4つの章に29曲のブルースを構成した。

同時進行で装幀も進めた。私が考える装幀とは、表紙から紙面の本文組、用紙など、素材もデザインもすべてを考える設計である。今回の書物では、書物としての香りのようなものを出したかった。歌詞集だから、つまり、詩集である。詩集はどうあるべきか。どのような有り様であって欲しいかと考えたとき、何百年にもわたって続いてきた書物の歴史に、この『ロバート・ジョンソン ブルース歌詞集』も加えてもらえるような書物にしたかった。

日本語の歌詞集にする限りは、どうしても縦組みにこだわった。そして書体も大切だ。今回使用した書体は、現在のデジタル全盛時代ではあまり目にしない書体であろうが、しかし、いまでも多くの書物で目にすることのできるクラシックな日本語書体だ。この文字には空間が生き生きとしており、詩集として編むにはもってこいなのだ。また、表紙や本文に使用した英文も、ガラモンドだがこれもクラシックスタイルのものだ。

そのように、味があって古典的で、しかも古さを感じさせない空気感を持つデザインにしたかった。デザインが前に出過ぎないことで、より一層歌詞の世界がひきたつと思う。
紙面の文字組も、ベースとしたのはウィリアム・モリスに代表される書物の伝統を引き継いだデザインである。のどと天を狭く、木口と地を広く取る絶妙なバランスで設計された組版デザインが伝統的に存在する。本当に美しい。それを受け継いだデザインにしたかった。

製本については、やはりどうしても上製本にしたかった。で、ページをめくりやすく、手触りのやさしい本文紙で、しっかりとした製本。今回も、用紙、印刷と製本では神戸のベテランの力を借りた。
日本の出版社は、そのほとんどが東京に集中している。一説によれば、8割とも9割とも言われている。なので、書籍用の本文用紙は東京を中心に流通しており、しかも輪転印刷機用の巻き取り紙が大半だ。そういうわけで、ここ神戸で自由に紙を選んでローコストで少部数の書物を作るというのはかなり難しいことなのだ。

はじめに用意して束見本を作ったのは、大阪在庫の用紙、『三菱製紙OHラフ書籍用紙ウスクリーム67/四六』であった。表紙は1ミリ厚のボールに『タントN1 135/四六』を巻く。見返しは『タントN1 100/四六』。
すっきりしたいい束見本が上がったが、すこしめくりが悪かった。本が、なんだか窮屈なのだ。本文紙もコシがありすぎ、すべりが良すぎて、これではイメージと違う。というわけで、あれこれ候補を選び直したが、これも“東京在庫・巻き取り専用”という壁が立ちはだかり、神戸に持ってこれないことが次々と判明。初版の部数からいくと、平台じゃないといけないのである。
ようやくたどり着いたのが、日本製紙のセミ上質紙『ピレーヌタフ72.38/m 60kg』という紙。柔らかく束もあり、少しざらっとしていて、でもあたたかい。印刷効果も悪くなさそうだ。これも東京在庫だったが、神戸に搬入することは可能だった。しかし、運賃がかかる。でも、どうしてもピレーヌタフでやりたかったので、決定した。というか、これしかなかったのだ。他の候補の紙はすべて持ってこれなかった。表紙と見返しは変えなかったので、そのまま。

そんなわけで、本文は決まった。次は、カバーではなく、本体の表紙にエンボスを施す加工だ。
表紙には普通シンプルに一色だけでタイトルや著者名を刷るのが一般的だ。いちばんの理由は経費だろう。しかしコストはかかるが、今回のロバート・ジョンソンではどうしても印刷ではなくエンボスのみでやりたかった。それも、『空押し』と呼ばれる加工。しかし『タント』という紙では効果が薄く、かといって、いくら空押しの効果があるからといってコート系のブラックペーパーにはしたくなかった。人肌のような、吸い付くような感触にしたかったからだ。そこで、製本の須川さんと相談して背のみ黒箔を使うことにした。可読性を考慮したためだ。表紙は空押しのままいくことにしたが、薄ぼんやりと浮かぶように文字がただよっている風が、なんとも言えない。
全曲のタイトルを英語で横組みにしながら縦に組み流し、書籍のタイトルを横一行で組んで中央で交差させた。これは、十字路だ。ロバートに捧げるあしらいである。
いったいどれくらいの人が表紙のソフトカバーを外して本体表紙を見るのかは分からないが、これはどうしても私としてはやりたかったデザインだったのである。

カバーのデザインをどうするか。これも重要なことだった。当初は、アメリカのミシシッピデルタに行ったことのある友人が撮ってきた写真を考えていた。私自身も一度だけミシシッピデルタには行ったことがあるが、偏屈な私はカメラを持参しなかったのだ。なので写真は一カットもない。その友人は写真の腕も良く、素晴らしい写真を沢山見せてもらっていたので、選り取りだった。しかし、それはやめることにした。また、ロバート本人の写真を使うことも当初からまったく考えていなかった。
結局そうした理由はカンタンだ。あくまでも歌詞が主役だからである。つまり、表現自体が主役なので、別の表現は不要なのだ。だから、文字だけで十分だと思った。
そうしてデザインしていったわけだが、途中から空気を加えたいと思うようになった。空気というのは、歌詞を読んでいく中で感じられる、ある空気である。それは名状しがたい。しかし、その名状しがたい空気を表紙において感じてもらうことで、歌詞集への導入となるのではないかと考えた。そうして出来上がったのが、ご覧の表紙だ。
ここには何が写っているのか、何度も質問されるが、それはご覧になった方が感じたものが正しい、というにとどめておきたい。歌詞を読んだとき、歌を聴いたときの感想とは、きっとそのように、人それぞれに違うもののはずだからだ。

次に考えないといけなかったのが、チラシ、宣伝、ウェブなどを含めた広報である。この重要なポイントの要として、ひとつのイラストレーションでつないでいくという案を思いついた。表紙、本文、扉を含め、前述の通り書物自体にはどこにも具象を入れていない。これも、あくまで歌詞を際だたせたかったからということだが、しかし具象を欠いたままだと書店での印象や、広告にはメッセージを込めることが難しい。そこで、ロバートを描いたイラストレーションを使ってイメージを統一することにした。
イラストレーションは中村妙さんにお願いした。どういうイラストにするか二人であれこれ考え、考え、またまた考え、たどり着いたのが、歌うロバートの後ろ姿、であった。これはもうすでにさまざまなところで語られていることだが、ロバートは壁に向かってレコーディングしたのだ。それは当日のレコーディングスタッフの逸話として残されている。それが、その後さまざまな憶測を読んだのはよく知られる所だが、私は、演奏しているロバートを表現する最も適切なシーンとして、この『後ろ姿』を選んだ。結果はご覧の通りだ。素晴らしいイラストレーションに仕上がった。私の細かくしつこい要求に何度も描き直し、つきあってくれた妙さんには本当に感謝している。彼女の才能には脱帽である。仕上がった瞬間は感動した。誰もが思い描いていたはずの、でも、誰も見たことのなかったロバートが、そこにいたからだ。
後ろを向いてアコースティックギターでスライドを弾き、歌っている。そういうミュージシャンは大勢いるだろうが、このイラストは紛れもなくロバート・ジョンソンである。ロバート以外にはあり得ない絵だ。

そして、印刷、製本と進み、ロバートの命日、8月16日を迎えた。この日はエルヴィス・プレスリーの命日でもある。不思議なことに、アメリカの音楽を進化させた偉大な二人のミュージシャンは、同じ日付で亡くなっている。
しかし、まだ本は完成していない。この日にロバートに捧げるなんていうカッコいいことはできなかった。発行日として予定していたのは8月26日だ。その日、とうとう見本が上がった。神戸須川バインダりーさんへクルマを飛ばし、ドキドキしながら出来立ての一冊を受け取ったのである。『・・・ああ、これか・・・』。澁澤画集を初めて手にしたときと同じような感覚だった。なんとも形容しがたいものがある。

私にとってロバート・ジョンソンとは、ジョン・レノンと同じくらいに強く深い影響を受けたミュージシャンだ。その、日本語歌詞集がとうとう目の前にある。おそらくロバート・ジョンソンの日本語訳歌詞集は、日本で初めてなのだ。何処かにあるのかもしれない。でも、私はそれを見つけることができなかった。だから作ったのだ。そして、これも私の知る限りでは、世界でも初めてなのだ。ロバート・ジョンソンの単独歌詞集は、きっと、この瞬間まで存在していなかった。

そう思い、果たしてこれは作って良かったのだろうか、とも思った。永遠に、聴くことしかできない存在として、ロバート・ジョンソンはあった方が良かったのかもしれないとも。しかし、そう思うのなら、レコードもそうだろう。初めてロバート・ジョンソンがSPレコードで聴けるようになったとき、そこできっと何かが変化したのだと思う。


この書物がこれからも読み継がれていくとすれば、それは間違いなくロバート・ジョンソンのレコードと共にあるはずだ。
冒頭でも書いたことだが、ロバートのブルースを聴き、そのまま歌の意味がわかる方は、実はこの歌詞集は必要ないと思う。本来ならばそれがいいはずなのは言うまでもないことだ。歌とは、聴くものであり、歌詞、サウンドを一体として聴いてこそ、その歌の魂が伝わるからである。
しかし、日本人であるわれわれが、日本語以外の言語で歌われた唄を聴きながらそのすべてを感受することは難しい。その時に必要となるのが、何を歌っているのか、ということがわかる手だてである。
ロバートのブルースを日本人である我々が聴く手だてのひとつとして、この歌詞集は存在するのである。
この書物が単独で存在することはあり得ない。
ロバートのブルースを聴いてこそ、この書物の命も輝くのである。

いずれ、ロバートのブルースが、日本語という言語圏で浸透し、表現として意義も深まり、何かが変わるかもしれない。むしろ変わってほしいとさえ思う。
ロバートの新しい日本語訳の書物が出てくるかもしれない。日本で表現されるブルースが、また広がりを見せるかもしれないし、あるいは、日本語で歌われるブルースが活気を帯びてくるかもしれない。
そうなったら、それはとっても素敵なことだ。


2004年12月
平田憲彦

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